長良川文化フォーラムは鵜飼をはじめ多くの文化を持って流れる長良川流域を豊かに育ててくれた長良川を通して、
こうした、素晴らしい長良川の文化を後世に継承していくための市民活動の報告です。
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10首の和歌で篠脇城を返してもらった室町時代の古今集研究者東常縁の「古近伝授の里」、
日本3大一揆の宝暦義民塚や処刑場、一揆の名残の郡上踊り、舞台となった八幡城等の紹介です。
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古今伝授の里 |
最初に、室町時代「古今集」の研究者で歌人でもある東氏が十首の和歌を詠んで敵将に送り、感動して
城が返還された篠脇城址のある、古今伝授の里フィールドミュージアム。次に宝暦農民一揆の穀見野刑場跡と、
この義民に由来する郡上踊りで有名な郡上八幡町を訪れました。
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国道156号線大和村徳永から東へ2kmほどの栗巣川沿いにあります。 |
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古今伝授の里 名勝東氏館跡庭園や史跡篠脇城をはじめとする歴史遺産が東西約2kmに及ぶ広大な園内に点在する野外博物館。 園内には和歌文学館や短歌図書館のほか、フレンチレストランや茶屋もあります。 |
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東氏館跡庭園 |
歌で還った篠脇城 京都に応仁の乱が勃発し、全国的大乱に発展する中、応仁二年(1468)九月、西軍に属する美濃国斉藤妙椿は大軍を率いて郡上に侵入し、東軍に味方する東(とう)氏の居城篠脇城を急襲した。 時の城主八代東氏数はよく戦ったが奮戦及ばず、来冶250年にして初の落城に及んだ。 |
篠脇落城の知らせをは、幕命で関東に在陣していた氏数(うじかず)の弟・常縁にもたらせた。 折りしも亡父益之の追悼法要を営んでいた常縁、この悲報を手にして亡父在世中を懐かしんで次の一首を詠んだ。 あるがうちに かかる世をみしも 見たりけり 人の昔の なおも悲しき 生きて見る落城の悲しみをこめたこの歌は、いたく人の胸を打ち、いつしか妙椿の耳にも入った。 故郷の 荒るるを見て もますぞ思う 知るべあらずば いかがわけこん これに対し、妙椿からもさっそく返歌があった。 このころの 知るべなくとも 故郷に 道ある人ぞ やすく帰らん 「道ある人」は、「有道の士」のことで、徳の高い人格をいう。 |
広い館跡はよく保存されています |
民造(たみぞう)岩 |
栗巣川を越えて東氏記念館へ
東氏記念館 和歌文学館 |
明建神社 |
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明建神社 明建神社(元は妙見(みょうけん)宮)は、篠脇城主東氏代々の守護神妙見大菩薩を13世紀に下総国(しもふさのくに)からこの地へ勧請(かんじょう)したと伝える神社であり、東氏が八幡へ居城を移した後も、神社だけは、この地に残されたものである。 そして、東氏の後継者遠藤氏からも崇敬8すうけい)をうけていた。 境内の東西両端に並ぶ杉は推定800年に及ぶといわれ、目通周囲7〜8mくらいでである。 なお、横大門といわれる230m余の桜並木は、篠脇城付の馬場跡といわれている。 |
東常縁(とうつねより)と飯尾宗祇(いいおそうぎ)連歌の碑
花盛り所も神も御山かな 常縁 文明年中(1472〜77)篠脇城主東常縁が連歌氏飯尾宗祇に古近伝授の折、妙見宮の社頭で詠み交わした連歌である。 |
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神迎え杉由来(樹齢700年余、目通周囲 7m) |
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獅子の寝床杉由来(樹齢500年余 目通周囲 6m) |
獅子の寝床石 |
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能の演目にも題される桜並木 神迎え杉と神帰り杉に挟まれた明建神社横参道、約250mにある代償20本余りの美しい山桜の参道です。 |
篠脇城址 |
境内が篠脇城の館跡 |
次にに宝暦農民一揆にゆかりの穀見野刑場跡の見学と関係する郡上八幡城、郡上踊りの紹介です。
穀見野刑場跡 |
岐阜県郡上市大和町 |
まずはじめに、郡上八幡穀見野処刑場跡に立ち寄りました。この処刑場跡には、郡上一揆に立ち上がり、
処刑された農民を供養した石仏等があります。
穀見野刑場跡 江戸時代から明治まで刑場があった場所である。 当時の道は、現地より山寄りにあり、その西側約1,7ka程が刑場になっていた。 江戸時代、郡上の農民は各種の税に苦しんでいが、宝暦四年(1754)から八年(1758)にかけて遂に一揆に及んだ。 全国三大農民一揆の一つに数えられている「宝暦騒動」であり、八幡城主十二代金森頼錦のときであった。 この穀見野は、百姓衆の集合場所ともなったが、遂に傘連判状をつくり、続々と代表を江戸へ送り、駕籠訴・箱訴など直訴に及んだのであった。 その結果、幕府評定所の厳しい取調べを受けて獄死も続出した。 百姓側の死罪十四名、金森藩は改易、幕府重臣の処分十四名余という大きな事件となった。 また、死罪のうち「前谷村 定次郎・歩岐島村 四郎左衛門・寒水村 由蔵」3名の首は、宝暦九年江戸から穀見野に到着。二日間16人の番人を付け、晒されたのである。 後世にこれらの霊を慰める為、郡上各地に「宝暦義民碑」が建てられて、郡上踊りの中の「やっちく」の歌詞にもなって今に伝えられている。 この墓標は宝暦3年に刑場の供養塔として建立され、刑場にあったものをここに移設したものであり、石仏は郡上街道穀見野の守りとして建てられたものである。 (郡上市) |
宝暦義民を弔う盆踊り |
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重要無形民俗文化財 郡上おどり 約30夜にわたって踊り続けられ、旧盆の4日間は徹夜で踊りあかします。 重要無形民俗文化財に指定され、全国三大民踊のひとつに数えられます。 |
頼山陽来郡記念の碑も同じ場所にあります 「日本外史」の著者として有名な頼山陽(1780〜1832)の郡上来訪を(文化十年(1823)記念した碑と歌碑である。 |
最後に郡上踊りでと八幡城で有名な八幡町内を散策しました。
郡上八幡町 |
悲劇の郡上一揆の一因となった山頂の積翠(せきすい)城
山頂にある城として日本一の美しさを誇る郡上八幡城(積翠城)
室町時代の後期、永禄二年(1559)戦国時代、遠藤盛数が八幡山に城を築づいたのが始まりである。
初代藩主は町の基礎造り、妹は山内一豊の妻
初代郡上八幡藩主は遠藤慶隆(よしたか)で、城下町の整備に力をいれて、神社の建立や寺院の開基につとめた。
夏の風物詩になっている郡上踊りは各地で踊られていた盆おどりを城下で踊ることを初代藩主慶隆が奨励したことが始まりと伝えられている。(慶隆の妹が、山内一豊の妻で有名な土佐藩主正室=まつ、ちょともいう=とされている) 三代目の常友は、寛文七年(1667)、幕府の許可を得て、郡上八幡城の大修築を行った。 なお、現在の城は昭和三年に造られたもので、大垣城がモデルであるというから、当時の城の再現ではないようだ。 水路が縦横にはしる水の町として有名であるが、これもまた、三代藩主常友が寛文七年(1667)、大火事で全滅した町を火災から守るため、小駄良川の上流3kmから水を引き、4年がかりで完成させたものという 五代常春に跡目がなく、お家断絶 善政を布いた遠藤家だが、五代常春に跡目がなく、お家断絶となった。 常陸笠間より井上正任が5万石で入城し、正岑に継いたが、丹波亀山へ転封し、郡上八幡を去る。 高山藩から金森頼時に出羽の上山へ転封になっていた金森頼時が、元禄10年(1697)、高山の隣の郡上藩に井上氏の後任として、3万8千石の石高で再転封になった。 宝暦義民一揆の遠因 しかし、2代目藩主・金森頼錦(頼時の孫)に幕府の奏者役を命ぜられたことから、接待などのため多くの費用を必要とし、郡上藩の財政が急速に悪化していった。 郡上藩はその対策として、年貢の徴収方法を定免(じょうめん)取り(数年間の収穫量の平均)から検見(けんみ)取り(毎年の収穫量と隠し田の検地)に改めたが、それを不満として百姓一揆が起きたのである。 宝暦騒動と呼ばれた、宝暦4年(1754)から4年続いた一揆である。 一揆は郡上に留まらず、郡上藩預かり天領にも広がり、最後は幕閣の疑獄事件に発展して行った。 一揆の中心は郡上であったが、処刑者のリストを見ると、その他の地区も加担し、明宝(当時の東気良村=ひがしけらむら)の善右衛門と長助が駕籠訴を行った罪で死罪になっている。 一揆側は江戸に出て駕籠訴や箱訴などで訴え、宝暦8年12月、評定所の裁決の結果、金森家は改易し、お家断絶。 更に、幕閣である老中本多正珍をはじめ、若年寄、勘定奉行、美濃郡代などが罷免されたのである。 宝暦九年(1759)、青山幸道が藩主として入城し、その後は七代にわたり郡上を治め、平穏なうちに明治維新を迎えている。 現在の城は昭和8年に再建されたものです。 |
藩校 潜竜館跡 |
神農薬師 当町、市島林組の富豪冶左衛門方の立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。 天明元年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。 その後、325余名の神農講会員により、昭和4年1月薬師如来をもらいうけ、同年7月の馬市を利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。 なお、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられて、多くの人々より信仰されている。 (現地説明板より) |
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いがわ小径 |
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郡上八幡の魅力を楽しく展示 郡上八幡博物館 |
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宗祇水 県下の名水と言われていますが一時、生活用水に汚染されたことがあります。 連歌師・宗祇(1421〜1502)に由来する名である。 宗祇は古今伝授の九代東常縁(とうつねより=代々歌道に優れ、高名な歌人であるとともに傑出した歌学者で、「古近集」研究の第一人者)に師事した室町時代の連歌師である。 |
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長敬寺と凌霜隊 |
駆け足の探訪でしたが一度散策されることをお勧めします。