長良川文化フォーラムは鵜飼をはじめ多くの文化を持って流れる長良川流域を豊かに育ててくれた長良川を通して、
こうした、素晴らしい長良川の文化を後世に継承していくための市民活動の報告です。

10首の和歌で篠脇城を返してもらった室町時代の古今集研究者東常縁の「古近伝授の里」、
日本3大一揆の宝暦義民塚や処刑場、一揆の名残の郡上踊り、舞台となった八幡城等の紹介です。

古今伝授の里
フィールド・ミュージアム
〒501-4608 岐阜県郡上市大和町牧912-1 
TEL. 0575-88-324

最初に、室町時代「古今集」の研究者で歌人でもある東氏が十首の和歌を詠んで敵将に送り、感動して
城が返還された篠脇城址のある、古今伝授の里フィールドミュージアム。次に宝暦農民一揆の穀見野刑場跡と、
この義民に由来する郡上踊りで有名な郡上八幡町を訪れました。

地点名称をクリックしてください

国道156号線大和村徳永から東へ2kmほどの栗巣川沿いにあります。

       古今伝授の里
 名勝東氏館跡庭園や史跡篠脇城をはじめとする歴史遺産が東西約2kmに及ぶ広大な園内に点在する野外博物館。
 園内には和歌文学館や短歌図書館のほか、フレンチレストランや茶屋もあります。

                        東氏館跡庭園
             古今伝授の里「東常縁(とうつねより)
 東氏(とうし)は下総(しもふさ)国の名門・千葉氏の一族で承久(じょうきゅう)の乱の戦功により
郡上郡山田庄を加領されて、十一代320年あまりにわたって、この地を治めた。
 郡上・東氏の初代胤行(たねゆき)は、鎌倉幕府の御家人で和歌に優れ、藤原定家の子・為家(ためいえ)から歌道を学ぶとともに、その娘を妻とし、中央歌壇にその名を知られました。
 以後、東氏は代々歌道に優れていましたが、中でも九代常縁(つねより)は高名な歌人であるとともに傑出した歌学者で、「古近集」研究の第一人者でした。
 彼は、連歌師・宗祇(1421〜1502=室町時代の連歌師で生地は近江(滋賀県)と紀伊(和歌山県)の両説があり定説はない。低い身分に生まれ禅門に入り、30歳のころ連歌に志し宗砌(そうぜい)、心敬、専順らに師事した。)にその奥義を伝授したことでよく知られ、「古今伝授」の祖といわれています。

              歌で還った篠脇城
 京都に応仁の乱が勃発し、全国的大乱に発展する中、応仁二年(1468)九月、西軍に属する美濃国斉藤妙椿は大軍を率いて郡上に侵入し、東軍に味方する東(とう)氏の居城篠脇城を急襲した。
 時の城主八代東氏数はよく戦ったが奮戦及ばず、来冶250年にして初の落城に及んだ。
 篠脇落城の知らせをは、幕命で関東に在陣していた氏数(うじかず)の弟・常縁にもたらせた。
 折りしも亡父益之の追悼法要を営んでいた常縁、この悲報を手にして亡父在世中を懐かしんで次の一首を詠んだ。

 あるがうちに かかる世をみしも 見たりけり 人の昔の なおも悲しき

 生きて見る落城の悲しみをこめたこの歌は、いたく人の胸を打ち、いつしか妙椿の耳にも入った。
 妙椿は「常縁はもとより和歌の友人なり、歌をよみておくり給わば、所領もとのごとく返しなん」と語り、歌道の達人であった常縁は、ここに掲げた十首の歌を詠んで送り届けたという。
 妙椿は返歌を送って和議が成立し、文明元年(1469)五月、京都を舞台に返還式が執り行われ、篠脇城は返されることになった。
 十四年ぶりに郡上に帰った常縁は、なまなましい合戦の爪あとを前に、故郷に復帰できたことをよろこびを詠って妙椿に送った。

 故郷の 荒るるを見て もますぞ思う 知るべあらずば いかがわけこん

 これに対し、妙椿からもさっそく返歌があった。

 このころの 知るべなくとも 故郷に 道ある人ぞ やすく帰らん

 「道ある人」は、「有道の士」のことで、徳の高い人格をいう。
 このたび帰城できたのもあなたが徳の高い人格者だからで、私のせいではありませんという意味である。
 こうした和歌の贈答によって、東氏本領は一滴の血を流すことなく、めでたく返還された。
 これを人々は「和歌の功徳」として賞賛し後世までに語り伝えたのである。
 歌碑の歌は町史通史編により、表記は現代かなづかいとした。
                            (東氏文化顕彰会)

広い館跡はよく保存されています

               民造(たみぞう)岩
 文政十二年(1828)九月、郡上郡青山藩の家臣梶村奉太郎が剣村の女「まき」をつれて妙見宮の拝殿で休んでいたが八幡紺屋の手代民造に切り殺された。
 民造はまきも殺そうと追いかけたが見失い栗巣川のほとりで腹を切り淵に身を投げた。
 腹を切ったこの岩を「民造岩」という。
 まきは逃げて民家にかくまわれ助かり、村預かりとなった。
 まきは後日助けられた民家にお礼に鍋を送ったとされる。
 一件落着したものの牧村では大騒動、 十一月拝殿を取り壊し、拝殿跡地を一尺、庭を二寸ほど掘り下げて清め、天保十五年(1844)十四年余の歳月を要して現在の拝殿を建立した。
 村人は民造を哀れみ墓を建て弔っていたが、昭和十年無縁墓地に移して供養する。
                          (現地説明板より)

栗巣川を越えて東氏記念館へ

東氏記念館

和歌文学館

明建神社

                   明建神社
 明建神社(元は妙見(みょうけん)宮)は、篠脇城主東氏代々の守護神妙見大菩薩を13世紀に下総国(しもふさのくに)からこの地へ勧請(かんじょう)したと伝える神社であり、東氏が八幡へ居城を移した後も、神社だけは、この地に残されたものである。
 そして、東氏の後継者遠藤氏からも崇敬8すうけい)をうけていた。
 境内の東西両端に並ぶ杉は推定800年に及ぶといわれ、目通周囲7〜8mくらいでである。
 なお、横大門といわれる230m余の桜並木は、篠脇城付の馬場跡といわれている。
  東常縁(とうつねより)と飯尾宗祇(いいおそうぎ)連歌の碑

 花盛り所も神も御山かな 常縁
 さくらに匂ふ峯の榊葉   宗祇

 文明年中(1472〜77)篠脇城主東常縁が連歌氏飯尾宗祇に古近伝授の折、妙見宮の社頭で詠み交わした連歌である。
 江戸末期の妙見宮三十三代の神主粟飯原豊後はこの歌碑の建立を思い立ち、親交のあった当時の郡上の和歌・俳諧の大家大野晴彦に歌碑面の揮毫を得ていたが、その成果を見ないで没したので、その甥日置弥一郎が遺志をついて有志を募り、明冶30年に完成したのである。(現地説明板より)

          神迎え杉由来(樹齢700年余、目通周囲 7m)
 大門入口の、神帰り杉とともに東郡上八部の頃植えられたものと思われる。
 「七日祭り」の行列が「帰り杉」の下まで行って帰ってくるのを迎えるという意である。
 また、この杉を「番太杉」ともいう。 番太は番太郎「地方で村の走使または警護をしていたもの)のことで、往時この杉の傍らに番太郎の家があったとも言われている。
 なお、この杉から帰り杉までの233mを明建神社の横大門といい、この桜並木は篠脇城付の馬場跡で篠脇城築城と同時に築城されたものと思われる。   (現地説明板より)

          獅子の寝床杉由来(樹齢500年余 目通周囲 6m)
 「七日祭り」の際、この杉の傍らで「野祭り」が奉納されるが、渡御の行列が帰って来てここで小休止してのち野祭りが始まるまでのしばらくの間、この杉の下に寝かせておくのでこの名がある。
 なお、ここで奉納される野祭りでは、渡御の神輿の前で「神前の舞・杵振りの舞・獅子起しの舞」が奉納されるが、これらの舞は「田楽」の能芸を保っている。  (現地説明板より)

獅子の寝床石
能の演目にも題される桜並木
 
神迎え杉と神帰り杉に挟まれた明建神社横参道、約250mにある代償20本余りの美しい山桜の参道です。

篠脇城址

                         境内が篠脇城の館跡
 篠脇城址は古今伝授の里の栗巣川の対岸にある志ノ脇山(標高570m)の山頂にある。
                                              城の構え
 山頂に約1000uの本丸跡、約1500uの二の丸跡、約1000uの腰くるわ跡があり、この3段3500uの城郭を囲んで放射状に30余本の縦堀が掘られている。
 この縦堀は、その形が臼の目のようになっているので、通称「臼の目堀」といわれている。
 天正九年(1540)越前の朝倉勢が篠脇城へ来襲した折、城主常慶(つねよし)はこの独特の縦堀を利用し、寡勢(かぜい)を以ってよく敵の大軍を迎撃し敗退させた。
                                               城の歴史
 鎌倉時代、下総国(しもふさのくに)の名門として聞こえた千葉氏の一族である東胤行(とうたねゆき)は、承久の乱(1221)の戦功によって、本領香取郡東ノ庄(とうのしょう)三十三郷のほかに、美濃国山田ノ庄(現在の大和町、白鳥町・八幡町の一部)を加領され、阿千葉(あちば=現在の大和町剣(つるぎ)地内)に居城を構えて領内を統治にあたった。
 これが、郡上東氏の始まりである。
 阿千葉には、三代約九十年間在城したが、鎌倉末期代4代氏村(うじむら)の時、さらに規模の大きいこの篠脇山城へ移った。
 その後、天文十年(1541)八幡赤谷山城(あかたにさんじょう)へ移るまで、ここで山田ノ庄を治めた。
 東氏は武人でありながら代々歌道の誉れ高く、特に第九代の城主常縁(つねより)は高名な歌人であると共に、また、すぐれた古典学者として知られ、京師文人の間に重きをなしていた。
 応仁二年(1418)、美濃国の守護斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が篠脇城を急襲して奪取したが、常縁から10首の歌を妙椿に贈って城を返されたという麗しい話が伝えられている。 

次にに宝暦農民一揆にゆかりの穀見野刑場跡の見学と関係する郡上八幡城、郡上踊りの紹介です。

穀見野刑場跡

 岐阜県郡上市大和町 

まずはじめに、郡上八幡穀見野処刑場跡に立ち寄りました。この処刑場跡には、郡上一揆に立ち上がり、
処刑された農民を供養した石仏等があります。

                 穀見野刑場跡
 江戸時代から明治まで刑場があった場所である。
 当時の道は、現地より山寄りにあり、その西側約1,7ka程が刑場になっていた。
 江戸時代、郡上の農民は各種の税に苦しんでいが、宝暦四年(1754)から八年(1758)にかけて遂に一揆に及んだ。
 全国三大農民一揆の一つに数えられている「宝暦騒動」であり、八幡城主十二代金森頼錦のときであった。
 この穀見野は、百姓衆の集合場所ともなったが、遂に傘連判状をつくり、続々と代表を江戸へ送り、駕籠訴・箱訴など直訴に及んだのであった。
 その結果、幕府評定所の厳しい取調べを受けて獄死も続出した。
 百姓側の死罪十四名、金森藩は改易、幕府重臣の処分十四名余という大きな事件となった。
 また、死罪のうち「前谷村 定次郎・歩岐島村 四郎左衛門・寒水村 由蔵」3名の首は、宝暦九年江戸から穀見野に到着。二日間16人の番人を付け、晒されたのである。
 後世にこれらの霊を慰める為、郡上各地に「宝暦義民碑」が建てられて、郡上踊りの中の「やっちく」の歌詞にもなって今に伝えられている。
 この墓標は宝暦3年に刑場の供養塔として建立され、刑場にあったものをここに移設したものであり、石仏は郡上街道穀見野の守りとして建てられたものである。   (郡上市)

宝暦義民を弔う盆踊り

         重要無形民俗文化財 郡上おどり
 約30夜にわたって踊り続けられ、旧盆の4日間は徹夜で踊りあかします。
 重要無形民俗文化財に指定され、全国三大民踊のひとつに数えられます。
                                  頼山陽来郡記念の碑も同じ場所にあります
 「日本外史」の著者として有名な頼山陽(1780〜1832)の郡上来訪を(文化十年(1823)記念した碑と歌碑である。

最後に郡上踊りでと八幡城で有名な八幡町内を散策しました。

郡上八幡町

悲劇の郡上一揆の一因となった山頂の積翠(せきすい)城

         山頂にある城として日本一の美しさを誇る郡上八幡城(積翠城)
 室町時代の後期、永禄二年(1559)戦国時代、遠藤盛数が八幡山に城を築づいたのが始まりである。
              初代藩主は町の基礎造り、妹は山内一豊の妻
  初代郡上八幡藩主は遠藤慶隆(よしたか)で、城下町の整備に力をいれて、神社の建立や寺院の開基につとめた。

 夏の風物詩になっている郡上踊りは各地で踊られていた盆おどりを城下で踊ることを初代藩主慶隆が奨励したことが始まりと伝えられている。(慶隆の妹が、山内一豊の妻で有名な土佐藩主正室=まつ、ちょともいう=とされている)
 三代目の常友は、寛文七年(1667)、幕府の許可を得て、郡上八幡城の大修築を行った。 
 なお、現在の城は昭和三年に造られたもので、大垣城がモデルであるというから、当時の城の再現ではないようだ。
 水路が縦横にはしる水の町として有名であるが、これもまた、三代藩主常友が寛文七年(1667)、大火事で全滅した町を火災から守るため、小駄良川の上流3kmから水を引き、4年がかりで完成させたものという 
                  五代常春に跡目がなく、お家断絶
 善政を布いた遠藤家だが、五代常春に跡目がなく、お家断絶となった。
 常陸笠間より井上正任が5万石で入城し、正岑に継いたが、丹波亀山へ転封し、郡上八幡を去る。
 高山藩から金森頼時に出羽の上山へ転封になっていた金森頼時が、元禄10年(1697)、高山の隣の郡上藩に井上氏の後任として、3万8千石の石高で再転封になった。
                     宝暦義民一揆の遠因
 しかし、2代目藩主・金森頼錦(頼時の孫)に幕府の奏者役を命ぜられたことから、接待などのため多くの費用を必要とし、郡上藩の財政が急速に悪化していった。
 郡上藩はその対策として、年貢の徴収方法を定免(じょうめん)取り(数年間の収穫量の平均)から検見(けんみ)取り(毎年の収穫量と隠し田の検地)に改めたが、それを不満として百姓一揆が起きたのである。 
 宝暦騒動と呼ばれた、宝暦4年(1754)から4年続いた一揆である。
 一揆は郡上に留まらず、郡上藩預かり天領にも広がり、最後は幕閣の疑獄事件に発展して行った。
 一揆の中心は郡上であったが、処刑者のリストを見ると、その他の地区も加担し、明宝(当時の東気良村=ひがしけらむら)の善右衛門と長助が駕籠訴を行った罪で死罪になっている。
 一揆側は江戸に出て駕籠訴や箱訴などで訴え、宝暦8年12月、評定所の裁決の結果、金森家は改易し、お家断絶。 更に、幕閣である老中本多正珍をはじめ、若年寄、勘定奉行、美濃郡代などが罷免されたのである。
 宝暦九年(1759)、青山幸道が藩主として入城し、その後は七代にわたり郡上を治め、平穏なうちに明治維新を迎えている。 現在の城は昭和8年に再建されたものです。

 

 藩校 潜竜館跡
    江戸時代後半の青山藩時代の藩校跡である(郡上八幡町文化在保護協会)

                                        神農薬師
 当町、市島林組の富豪冶左衛門方の立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。
 天明元年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。
 その後、325余名の神農講会員により、昭和4年1月薬師如来をもらいうけ、同年7月の馬市を利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。
 なお、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられて、多くの人々より信仰されている。                                  (現地説明板より)

いがわ小径
「いがわこみち」は民家に囲まれた用水沿いに続く、長さ119m、巾1mの小さな生活道路です。

       郡上八幡の魅力を楽しく展示
         郡上八幡博物館

宗祇水
 県下の名水と言われていますが一時、生活用水に汚染されたことがあります。
 連歌師・宗祇(1421〜1502)に由来する名である。
 宗祇は古今伝授の九代東常縁(とうつねより=代々歌道に優れ、高名な歌人であるとともに傑出した歌学者で、「古近集」研究の第一人者)に師事した室町時代の連歌師である。

                                     長敬寺と凌霜隊
 八幡城第二代と第四代の城主であった遠藤慶隆が、古今伝授で有名な「東氏」の子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮住まいしていることを知り、慶長六年(1601)に招いて建立したのが長敬寺である。
 慶応四年(1868)四月江戸城開城の折、郡上藩士45名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
 九月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎にいれられ、明冶二年当長敬寺に移された。
 明冶3年に釈放されたものの、彼らの一生は苦しいものであったと伝えられている。  (現地説明板より)

駆け足の探訪でしたが一度散策されることをお勧めします。