長良川文化フォーラムで長良川の川湊、上有知(こうずち)湊の船運によって発展した美濃市と
特に和紙を中心とした経済活動で栄え美濃紙の名前の由来にもなった美濃町と美濃紙で財を成した商家が
競って「うだつ」上げた街並の散策と紙漉き体験と美濃紙に漉き込む「モミジ葉」を拾いに
紅葉の大矢田神社をへ参拝に行きました。

活動日

08.11.29

美濃市天王山一帯に広がる見事なヤマモミジと、神仏分離により寺(牛頭天王)の仁王門が残った大矢田神社の散策から

大矢田神社ともみじ

〒501-3771 岐阜県美濃市大矢田

大矢田のもみじは社殿の東側に折り重なるように生い茂っていて美しい景観を誇っています。
神社としては珍しい神仏混淆の名残の仁王門(桜門)あたりから、
山頂に向かって下から上へと徐々に色づくことも素晴らしいとされています。

           国指定重要文化財の社殿は寺の山門
 大矢田神社社殿は、寛文12年(1672)建造の本殿とそれより古いといわれている拝殿とからなり、各部に精巧な彫刻と彩色を加えた華麗さを誇る建築物で、国重要文化財に指定されています。
                     神社に寺の山門があるわけ
 大矢田神社の創建は孝霊天皇の時代といわれ、養老二年(716)、泰澄大師がこの地(天王山)いったいを開基し、天王山禅定寺としました。
 大矢田神社はその一部となり、牛頭天王として習合されました。
 明治維新時の神仏分離により仏教関連の物は廃棄され、旧牛頭天王は建速須佐之男命(すさのおのみこと)に戻されましたが、唯一、楼門(仁王門)が残され、今も神社の中に仏教式の門が残っています。
 これと同じことが、大垣市神戸町の「日吉神社」には三重塔が建っています。

天保六乙未年九月吉日
(江戸末期の1835年建立の燈籠)

 大矢田神社境内の楓谷は、ヤマモミジの巨木が多く神社本殿への登り口の石段から社殿東側一体の谷川沿いの約90aが国の天然記念物に指定されています。

                     本殿
 現在の本殿は寛文十二年(1673)に再建され、建物の妻をはじめ各部に精巧な彫刻と彩色が施されており、平成元年に国の重要文化財に指定されております。
                                 拝殿
 また入妻の拝殿は、大変珍しい造りで本殿よりも古いとされており、本殿と同じく重要文化財に指定されています
 なお、神社には仏画「釈迦十六善神図」や「禅定寺梵鐘」「弘法大師座像」など貴重な資料が数多くあります。
神橋
        天然記念物楓谷のやまもみじ樹林
 大矢田楓谷は、ヤマモミジの巨木が多く自然樹林をなすところとして昭和五年に国の天然記念物に指定されました。
 このモミジもその内の一本で、樹齢は約350年といわれています。
                      (現地説明板より)

つづいて美濃美濃和紙会館で美濃紙の歴史や紙漉きを体験しました

           美濃和紙の起源は奈良朝時代
 美濃の和紙は奈良朝時代にまで遡ることができます。 
 奈良朝時代には仏教の興隆、普及によって、写経が盛んになりました。
 その写経用の紙は、都である奈良で特に需要が高まり、各地から経紙が年貢として運びこまれました。
 正倉院文書の中に、美濃経紙が記されており、美濃はその量がもっとも多くありました。
 宝亀五年(774)の資料には紙を製造し、年貢として都へ差し出す国が14カ国あり、この中にも美濃の名がありました。
           美濃和紙は1300年以上の歴史
 美濃の国では、楮(こうぞ)が良質で、多く取れたからだと考えられます。
 毎日新聞社「手漉和紙大鑑」によると、大宝二年(702)「美濃・筑前・豊前三国の戸籍簿断簡であり、いずれもそれぞれの国府で、所属の製紙工に漉かせたものである。」とあります。
 これらの地から紙の原料は京都へ送られ、官営の紙屋紙として漉かれましたが、美濃の国にも官営の製紙場が設けられ美濃和紙として年貢として差し出されていたようです。
 美濃国府は現在の垂井町府中の御旅神社境内付近にあり、垂井町垂井(垂井宿東口付近)には紙屋塚があり美濃紙発祥の地といわれています。
  (美濃国府、紙屋塚の詳しくは”ここ”をクリックしてください)
         美濃市における美濃紙の始祖は
 羽場蔵人秀冶が弘仁五年(814)に武儀郡牧谷上野村に来て紙を漉いたのではないかとされています。
参加者が漉いた紙を持って帰れるように色んな手立てで完成させてくれます。

1Fには売店があり、お土産の和紙製品が用意されています。

美濃紙ので財を成した商家がならぶ美濃町を散策しました。

うだつの町

                          「うだつ」が上がる美濃市
 「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、美濃市には日本で最も多くこの「うだつ」が残っています 裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
 この町は、地形的に交通の要衝地であったため、各地からいろいろな物資が集まりました。
 集まってきた美濃和紙などの物資は長良川畔の上有知(こうずち)湊から船で岐阜・桑名などへと運ばれ、町には次第に和紙問屋やいろいろな商売を営むものが増え、商家町として栄えました。
 町並みには、江戸〜明治時代にかけて造られた商家が軒を連ね、古いたたずまいを見せています。
 なかでも、国の重文指定になっている造り酒屋の小坂家住宅や市指定文化財の旧今井家住宅は庭や蔵などに往時の繁栄を今もとどめています。

梲(うだつ)と屋根神様のある風景

「上有知(こうずち)」から美濃町へ
美濃町は、明冶末期まで「上有知」と呼ばれていました。
長良川に上有知湊を中心に元和元年(1615)に尾張藩領となったのをきっかけに、川湊の船運による物資集散の
拠点として和紙を中心とした経済活動がすすみ、商業都市として繁栄しました。
明冶44年に周囲市町村の反対を説得し美濃町と改名したそうです。

                  旧今井家住宅
 泉町でも破風(はふ)瓦が左右二枚ずつで構成された特徴あるうだつが上がっている。
 今池は江戸末期には庄屋をつとめる一方、和紙問屋を営んでいた豪商で、住宅は江戸中期に建てられ、明治初期に増築されたものという。
 大型の商家建築で間取りは市内最大規模。
 帳場・みせ座敷・中ノ間・奥座敷などがあり、風格あるたたずまいを見せている。
 奥座敷から眺める庭がすばらしく、大きな水鉢や石灯籠が配され、印象的な樹形のサンゴジュやカイズカイブキ、ドウダンなどが庭を彩っている。
 この庭は水琴窟があることで知られている。
                            (美濃市教育委員会)

                                        小坂家住宅
 
小坂家は、江戸時代から続く造り酒屋で、住居として今も居住され店舗としても使用中で、「大黒柱物語」として全国にテレビ放映されました。
 美濃市の中心市街「うだつの上がる町並み」の一角にあって、その広さは約 4,900u。
 
住宅は安永元年(1772)頃の建築で間口 11.4m、奥行16.0m、二階建、「うだつ」は両妻と中央(現在は表側棟際を残すだけ)3本あり、屋根は全面に起りを持つ美しい姿で桟瓦葺の珍しい形式です。

美濃みわかも特別に依頼して見せてもらいました。

美濃にわか

にわか(仁輪加)
歌舞伎をもとにした素人芝居で江戸時代後期に全国的にもてはやされるようになったといわれています。
祭礼行事に神社の境内や町角で社会事象を風刺を利かせて、祭礼行事を楽しむ若衆行事です