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長野県長野市鬼無里(きなさ)にある奥裾花自然園はミズバショウ群落と途中の奥裾花渓谷にある大地震による
大地の隆起で現れた奇岩、白鳳時代の天武天皇による遷都計画、木曽義仲倶利伽羅峠の戦いなど伝承の里です。

長野市鬼無里(きなさ)日陰

信州谷の都「鬼無里(きなさ)」道のり主な地点

アクセスは「上信越自動車道」の長野ICから善光寺へ進み国道406号を白馬方面を目指します。(鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

国道406号「裾花川」に沿って26kmほど西進すると長野市鬼無里(きなさ)の中心地の交差点へ到着します

鬼無里交差点
(きなさ)        

郵便局などがある鬼無里(きなさ)の中心交差点です。

「鬼無里交差点」を過ぎ更に西(白馬方面)へ裾花川に沿って5.3kmほど進み「西京分岐点」に出ます

西京(にしきょう)分岐点

さらに西京分岐点を裾花川に沿って北進(右折)します。

木曽義仲の文珠堂

西京分岐点から6kmほど進むと裾花川の対岸に文珠堂の案内板があります

              木曽義仲の文珠堂
 
1183年(寿永二年)、北陸進攻で鬼無里を通過した木曽義仲は、守仏
の弘法大師作大聖知恵文珠菩薩像に一巻の軸を沿え、土倉薬師堂に合祀して武運を祈りました。
 仏の加護を受けた義仲は、倶利伽羅峠の戦いなどに大勝利し、入京するや征夷大将軍に任じられ旭将軍と呼ばれました。
 しかし1184年(元暦元年)源頼朝の軍が京へ攻め上り、義仲は栗津ヶ原でこれを迎え討ちましたが、破れ31歳の生涯を閉じました。
               その後の木曽源氏
 
この時、義仲に従っていた仁科(にしな)城主(現大町市)仁科盛遠は、義仲の第二子力寿丸(りきじゅまる)を守って間道を抜け、仁科に戻りました。
 盛遠は頼朝から力寿丸を隠すため、土倉に一堂を建てて力寿丸を隠棲させ、義仲の文珠菩薩像を堂に移して父の菩提を弔わせました。
 そして力寿丸が元服すると自分の娘を娶らせ、信濃守義重と名乗らせて信濃源氏の跡目を継がせました。
   (鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

文珠堂の奥にそびえる山が一夜山です

一 夜 山
(鬼無里の地名由来・
その1

               一夜山の鬼
 昔むかし、天武天皇が遷都を計画され、その候補として信濃に遷都に相応しい地があるかを
探らせるため、使者を信濃に遣わせました。
 使者は信濃の各地を巡視して候補地を探し、水内(みのち)の水無瀬(みなせ)こそ都に相応しい地相であるとの結論を出しました。
 これを知ったこの地に住む鬼たちは大いにあわて、「この静かなところに都なんか出来たら、俺たち棲めなくなる」「都が出来ぬよう山を築いて邪魔をしてしまえ」と、すぐさま里の真ん中に大きな山を築いてしまいました。
 これでは遷都は出来ません。 怒った天皇は鬼達を退治してしまいました。
 この時から、この水無瀬の地に鬼は居なくなったので、人々はこの地を鬼無里と呼び、真ん中に出来た山を一夜山と呼ぶようになりました。
         (鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)
 
なお、一夜山への登山は「鬼無里交叉点」から県道36号を4kmほどにある「一夜山登山口」から「冷沢」沿いに登山した方が道に迷わないようです。

さらに裾花川を遡ると奥裾花ダムと奥裾花大橋が見えます。

奥裾花ダムと奥裾花大橋

(鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

この奥裾花大橋の手前から道は二手に分かれ一方通行になります。
登りは大橋を渡り自然公園まで行き、帰りは大橋の袂まで下ってきます。

木曽殿アブキ

奥裾花大橋を渡り5〜6km進んだ裾花川の源流部に「木曽殿アブキ」はあります。

 木曽義仲は北国進攻の際、間口60b・奥行20bの巨大な岩屋に兵馬300騎を休めて、野営したそうです。
 今は吊り橋が崩壊のため行くことが出来ません。(残念です)
              (鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

裾花川沿いには地震跡地層といわれる奇岩奇壁が続きます

地震跡地層

 鬼無里の名の由来や、一夜山の伝承、舟繋ぎの樹伝承、鬼女「紅葉」伝承などは太古時代に台地が隆起して、この地に様々の昔話が誕生したのではないでしょうか?!

奥裾花大橋から9kmほどで料金所に到着します。

ここから数百mの観光センターまでは車で入園できます。

観光センター

トイレは年中使用できますが、その他の施設はハイシーズンのみのようです。

 観光センターから奥裾花自然園までは2,300mほど

この2300mはオフシーズンはシャトルバスがないので徒歩です。

観光センター

園内は案内マップに示された番号の標識が地図と共に立ててありますから安心です。

ではスタート!

道は良く整備されていて快適です。

これがブナ自然林です

今池湿原

(鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

標識とおりに進めば休息舎へ自然にたどり着きます

休息舎から観光センターまで2,3km歩きます。

観光センターへ到着(なぜ観光センターなのか?)

長野市への帰路は「鬼無里交差点」から「県道36号」で「戸隠高原」「バードライン」散策ををおすすめします。

県道36号を鬼無里交叉点から8kmほどの「中田」に「十二神社」があります。

舟繋ぎの樹

 中田の十二神社は、鬼無里の谷が湖であった時に湊があった所で、南西へ直線距離で7,5km離れた飯綱神社を結ぶ渡し舟があったそうです。
 その渡し舟を繋いだ木が現存し、今もそう呼ばれています。
(鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

県道36号を中田の十二神社から3kmほどの「上楠川」から西へ入る山道の奥に「紅葉の岩屋」があります。

鬼女「紅葉の岩屋」
(鬼無里の地名由来・
その2

                    紅葉誕生
 その昔、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈って娘「呉葉(くれは)」を授かりました。
 娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き呉葉は「紅葉」と名を改め琴の指南を始めました。
 ある日、紅葉の琴の音に足を止めた源経基公の御台所は紅葉を屋敷に召して侍女としました
 紅葉の美しさは経基の目にも止まり、公は紅葉を召して夜を共にしました。
 経基公の子を宿した紅葉は公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所を呪い殺そうと謀りましたが企てが露見してしまい、紅葉は捕らえられ信濃の戸隠へ流されてしまいました。
                       紅葉信濃へ流刑
 信濃に至り、川を遡ると水無瀬(みなせ)という山里に出ました。
 紅葉は純朴な里人をだまし同情を得て、内裏屋敷を建てさせ棲みました。
 紅葉は里人が病に苦しむと占いや加持祈祷で治し、付近の里に東京、西京、二条、三条などの名を付け都を偲んでいましたが月満ちて玉のような男の子を産むと、その子を一目経基に見せたいと思うようになり、兵を集め力づきでも都へ上ろうと考えました。
 里人には「経基公より迎えが来たので都へ戻ります」と言い置き、戸隠荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下にとし、村々を襲い軍資金を集めました。
 その噂が冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂に紅葉征伐を命じました。
 平維茂は山賊共を打ち破り、紅葉の岩屋へ攻め寄せますが、紅葉は妖術を使い維茂軍を道に迷わせます。
 妖術を破るには神仏の力にすがるほかないと別所温泉北向観音に籠り、満願の日に一振りの宝剣を授かりました。
 意気あがる維茂軍を紅葉は又もや妖術で退けようとしましたが宝剣の前には術が効きません
 やむなく雲に乗って逃げようとする紅葉に、維茂は宝剣を弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、地面に落ちて息絶えました。
 享年三十三歳と伝わります。
 人々はこれより水無瀬の里を鬼の居ない里・鬼無里と言うようになりました。
          (鬼無里観光振興会発行の「谷の都きなさ」パンフレットより)

いずれにせよ、この「鬼無里(きなさ)」は天武天皇の遷都計画・中田十二神社「舟繋ぎの樹」・鬼女「紅葉」などや
西京・東京などの地名に伝承の多い怪奇ロマンのあふれる「谷の里きなさ」を堪能できる里でした。