静岡市清水区  
    由比町阿僧

麓の「青少年野外センター」から浜石岳頂上(標高707m)をめざし、尾根づたいに富士山や駿河湾の
素晴らしい風景を楽しみながら立花岳(標高460m)を経て薩埵峠でフィニッシュする計画で出発しました

久しぶりの晴天に恵まれ出発でした。

出発から3時間半ほどで大きく富士山が見えてきました

山頂までくっきりと見えます。 その姿に全員感嘆しました

近づくに従って正面に大きく見えるようになり、車内は賑やかになりました。

海も穏やかで登山日和と全員のテンションも上がります。

薩埵峠が近づいてきました

                    江戸時代は海
 薩埵峠の下あたはJR東海道本線、東海道新幹線、国道1号の三大動脈に占有されていますが江戸時代は海でした。
 江戸時代後期の安政二年(1855年、明治になる13年前)の「安政の大地震」で海岸の一部が隆起して狭い陸地が出来ました。
 その狭い陸地に現在の日本の動脈と言われる東海道本線、東海道新幹線、国道1号が走っています。

薩埵峠から見た三動脈
 JR東海道本線は最初に開通したためか山側を通っています。 その外側を国道1号が通っています
東名高速道路は一番あとにできたので海の中に橋脚を建て途中からトンネルで山に入っています
東海道新幹線は余地がなく、ずーっと内陸部をトンネルなどでこの難所を抜けています

               安政の大地震
 安政の大地震は、1855年11月(安政二年十月)に関東地方南部で発生したM6.9の大地震で「安政江戸地震」と呼ばれます。
 こも他に安政時代には、1854年12月23日(安政元年11月4日)に「安政東海地震」、一日後の12月24日(安政元年11月5日)には「安政南海地震」(M8.4)が発生しており、この「安政江戸地震」と合わせて「安政三大大地震」と呼ばれています。
 また、この時代には他にも「安政伊賀地震」「安政飛越地震」が発生しています。
                       (ウィキペディアより)
                    薩埵峠地すべり防止対策工事
 当日、薩埵峠へ行きましたが大規模な工事をしていましたので”また公共事業の名を借りて地元代議士が予算をとり大規模工事をしているわ”と思って写真も撮ってきませんでした。
 しかし帰宅後よく調べると大変重要な工事だと理解しました。
                (工事の看板だけは撮ってきましたので掲載しておきます。)

さて浜石岳へと急ぎます

浜石岳登山口へ
 薩埵峠の下を通り国道一号から、県道369号へ入り由比町の、西山寺地区のサークルK手前から山側へ入ります。
 やがて浜石岳登山口の「浜石バーベキュー駐車場」へ着きます。

西寺地区へ入ると「浜石岳→」の案内板が要所要所にありますから何とか辿りつけます。

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「浜石岳」ハイキングコースマップ.
(由比町企画観光課)

「浜石バーベキュー駐車場」

シーズンオフなのか駐車場は閑散としていました。

本日の登山計画ルートを「気まぐれ山歩」(Kimagure_sanpo/My Trekking Diary)氏のHPから借用して説明します
(「気まぐれ山歩」(Kimagure_sanpo/My Trekking Diaryさんごめんなさい)


からの借用地図

計画では全コースを5時間で制覇できると思いましたが!

喫茶店の女性にコースの様子を尋ねたら、我々の年齢・体型をジッと見て浜石岳から薩埵峠への縦走は止め
浜石岳から下山してバスで薩埵峠へ向かうことを勧めてくれましたので、急きょ予定変更!

「帰りに寄ってソバでも食べて行ってください」と念を押されました

全員5時間の登山・縦走を変更し気軽になって浜石岳目指して快調にハイキングを始めました。

富士山を入れて記念写真
歩き始めて10分、絶好のビューポイントで一服

こちらは全員ですが主賓の富士山が隠れてる!

沢山落ちているミカンが気になる
この地区の倉沢、寺尾あたりは6月になるとでビワが収穫でき、大きな実と甘さが自慢だそうです。

ミカンを拾っていい!
ミカン畑で働いている方が「落ちているミカンは拾っていいですよ」と言われ女性陣は登山を忘れさっそくミカン拾い

画像

ますます富士山が大きく見えるようになりました

場所が変わると富士山の大きさが違って見えます

車の通れる道ですが「登山ですから」歩きましょう

此の頃から足の遅い組が見られるようになりました

途中「三本松を経て浜石岳」の標識を見てそちらを登ることにしました。

ここから青少年野外センター」まで1.2kmの標識もあります

この道は意外と険しく、健脚組と二つに分かれてしまいました

鈍足組は陽当たりの良い場所を見つけてさっそく昼食にすることにしました。

残念!
道の脇で昼食をしていると車がどんどん通ります。
(あとからインターネットで調べると頂上手前10分位の地点まで車で登れるそうでした)

又もや我々残留組は頂上の様子を「気まぐれ山歩(Kimagureーsanpo/My Trekking Diary)氏のHPを借用して
山頂気分を味わいたいと思います。(気まぐれさん山歩さんごめんなさい)

浜石岳山頂

田子の浦に延びる海岸線

原文・原画のまま

山頂からは360度の大パノラマ
こんな景色のいいところなら無理してでも登ればよかったと悔しい思いをしています。

下る途中看板を見つけました。車で登れるんだ!

この標識を見て「気まぐれ山歩」(Kimagure_sanpo/My Trekking Diary)氏の地図を出発前に見ていれば自分の位置が
分かり判断も早くでき頂上までは登れたのではないかと、又もや悔やまれます。

どんどん下ります

快晴に恵まれ、快晴の富士山も見ることが出来、幸せな気分で、山を下ります。

だんだん海が近くに見えてきました。

鈍足組はここでゆっくりと休憩することにしました。

山頂登山成功組と合流してバスで「薩埵峠」へ向かいます

駐車場は狭いが余裕はあるようです

                       薩埵峠
 この峠は由比宿と興津宿を結ぶ峠道で、古くから東海道の箱根峠宇津ノ谷峠(静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部坂下の境にある峠)、 日坂峠(掛川市日坂にある峠) などの峠がともに難所として知られています。
 薩埵峠からの眺望は絶景で眼下に“東海の親不知子不知”と呼ばれる海岸線、眼前に富士山という展望が広がり江戸の昔から眺望で有名な場所です。
 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは、慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
 この年九月、幕府ははじめて朝鮮使節の一行を迎えるに当たり、国の威信に関わると思ってこの道を開いたものと思われます。                              (由比町企画観光課)

峠へは車で行けます
峠には小さいながら駐車場もあり、立派なトイレ、売店などもあります。
それより特筆は噂よりも絶景です。さすが江戸時代から浮世絵などで有名な峠だったことが分かります

何故ここに「幸田文 文学碑」が?
狭い峠に「薩埵峠山之神遺跡」の碑と「幸田文 文学碑」がありその組み合わせにびっくりしましたが、その理由が分かりました。

「薩埵峠山之神遺跡」

                  幸田文も心配していた
                  「幸田文 文学碑」
 由比の家ある風景を見ると その安らぎがあってほっとしたのだが 佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面を見てしまう、草木のあるなんでもないない山なのだ。
 だがそこを見ると、なにかは知らず土よ いつまでも平安であれと念じていた。
                      残念
(どの本に書かれていたのか、碑奥の石板の説明に書かれていたが読まなかった)

峠の駐車場から展望台へは2〜3分で行けます

ここから見下ろすJR東海道本線、国道1号線、東名高速道路の三動脈の光景はわくわくしたものがあります。
(東名高速道路は真下の山の中へトンネルで入ります)

殆ど真下に見下ろすとJR東海道本線、国道1号(東名高速道路は「薩埵峠」の下をトンネルで抜けています)

崖の中腹に展望台が見えてきます

展望台からは先ほどの三動脈が全部見ます

「薩埵峠」の重要性と地滑り対策工事の説明

 

赤線の範囲が地すべり対象区域だそうです
確かに危険な地形です。 大地震が来る前に対策が完了すれば好いんですが・・・?

浮世絵の旅人
昔から富士山とともに急な崖の脇を旅人は通っていたのでしょう

桜えび
清水港までの眺望も素晴らしいものでした。
秋には体長わずか4〜5cmの日本では駿河湾でしか漁れない桜えび。とれたての時は透き通るような桜色。春と秋に漁が行なわれるそうです

この絶景はいくら見ても見飽きません。

先ほどまで見えていた富士も霞んできました。

富士山が映っていない記念写真
でもみんな、にこニッコニコでした。

駐車場へ帰ったら、もう夕暮れでした。 帰ろう!

この駐車場の下が「崖崩れ対策工事」の現場でした(画像が無い)

「薩埵峠」を出発して二時間ほどで浜名湖畔を通過しました

浜名湖にきれいな夕日が映し出されていました

間もなく日の入りです

帰着は20時頃になるでしょう

一日中、快晴に恵まれ綺麗な富士山を堪能し命の洗濯ができました。