国の三重指定(特別指定・特別名勝・重要文化財)の一乗谷朝倉氏遺跡

福井県福井市城戸ノ内町

朝倉氏は南北朝時代に主家 斯波高経(しば たかつね)に従って越前へ入国し、応仁の乱(1467年)での
活躍をきっかけに、斯波(
しば)氏、甲斐(かい)氏を追放し越前を平定し、以後、孝景、氏景、貞景、孝景、
義景と5代103年にわたって越前を中心として繁栄し、活躍しました。

「一乗谷朝倉氏遺跡」へGO!
「一乗谷」は下図「広域ロードッマプ」の下部左にある「越美北線一乗谷」駅脇にあります。

一乗谷朝倉氏遺跡はどこ?
地図の「現在地」表示の「JR越美北線くずりゅうこ」駅を西へすすみ「一乗谷」駅付近です

福井が近づくと視野が広がります。

白山連邦に続く山並みが連なります

九頭竜から「越前おおの」の山頂にある「越前大野城」を見ながら「一乗谷」へ向かいました。

「一乗谷」

この付近は新しい道が出来大変ややこしい道です
道案内の標識に従って国道158号から県道31号へ、そして「一乗谷」(県道18号)へ入ります。

一乗谷へ入りました。

県道31号から「一乗谷」(県道18号)へ入り約200mほど進むと、かっての城門「下城戸」が見えてきます。

城門「下城戸(しもきど)」
谷が最も狭い地点に土塁が45t以上の巨大な石で築かれ、城門とされました。(幅18m、高さ5m、長さ20m

下城戸の土塁の一部は県道18号により分断されています。

西山側にかっての城戸があり今も立派な石垣が残っています

              特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」
 一乗谷は戦国大名朝倉氏が館と城を構え、家臣や他商人職人を集住させた城下町のあったところです。
 一乗谷は約100年間越前の中心として栄えましたが、朝倉義景の代のとき1573年織田信長と戦って敗れ、
 一乗谷も滅亡してしまいました。
 その後400年間城下町は田畑の下に埋もれていましたが、1967年に発掘調査が始まると、朝倉館をはじめ当時の城下町の様子が、次第に明らかになってきました。
 朝倉館跡や諏訪館跡には当時の建物跡の他、立派な庭園があって特別名勝に指定されています。
 武家屋敷や町屋は道路に面して規則的に並んでいて、一乗谷は計画的な町割りに従って建設されいたことが分かりました。
 町屋の中には出土した遺構や遺物から染物屋・数珠屋など職業が分かる家もあります。
 また、東の山上には山城があって、いざと言う時に備えています。
 このような戦国時代の城下町の様子が具体的にわかることから、一乗谷は特別史跡に指定されています。
 発掘調査によって、越前焼きや中国から輸入された陶磁器のほか将棋の駒や下駄・櫛などが大量に出土しています。
 また天目茶碗や茶筅(ちゃせん)などから「茶の湯」が盛んだったことも分かってきました。
 一乗谷の文化や日常生活を示すこれらの遺物のうち重要な品々は、重要文化財に指定されています。
                           (現地説明板より)

城門「下城戸」を過ぎると旧城下街へ入ります。

旧城下街の町割りに無関係に現在の道県道18号が走っています。

早く車から降りて間近で見たくてワクワクします

次から次へ住居跡が続きます

遺跡は約1mほど土の下から
当時の「南北幹道」と現在の「県道18号」の段差は約1mほどあり遺構は1mほどの土で保護されていました。

やがて復元家屋が見えてきました。

塀と門が復元されているようです

商家の復元もあるようです

車はやっと観光用駐車場に着きました。

一乗谷川の向こうにも遺跡があるようです

橋の向こうは「義景館」など領主館のようです

右の下城戸(しもきど)から「朝倉館」を中心に左の上城戸(かみきど)までが城下町でした。

朝倉領主館付近の復元図です
上城戸は京都に近いので「上」としたそうです。

ボランティア・ガイドは別途料金でした

とにかく入場門から入場します。

復元街並みは広い!
県道18号との間には生垣があり無料入場はできないようになっています。

この遺跡は、戦国大名一乗谷朝倉氏が、領国支配の拠点とした所です。
天正元年(1573年)の織田信長との戦いによる滅亡後、土の下にそっくり埋もれてきました。
昭和46年(1971)に278haが国の特別史跡の指定を受け、継続的な発掘調査整備事業を実施しており、これによって、
城主の館や庭園、武家屋敷や町屋、そして寺院等からなる街並み、これを防御する山城、城戸(きど)等が一体となって
良好に残されている事が明らかになってきています。
こうしたことから全国屈指の戦国時代の遺跡として注目されています。
また、庭園群は、国の特別名勝に指定されています。
(現地掲示説明の通り)

当時の国割図

     一乗谷朝倉氏遺跡(国の三重指定/特別史跡・特別名勝・重要文化財)
 一乗谷朝倉氏遺跡は、人口1万人を超え、京都・大阪堺につづく大都会であり、雅やかな文化の華を咲かせました。
 しかし、朝倉氏は、天正元年(1573)に信長により三日三晩、焼打ちに遭い、その長い歴史の幕は閉じました。
 昭和42年から始まった本格的な発掘調査で、当主館や武家屋敷、街並みがほぼ完全な姿で発掘された日本唯一乃遺跡です。
 この遺跡は全国的にも大変貴重で、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財と3つの指定を受けており、他には金閣寺など4例しかありません。               (現地 説明板のとおり)

園内には休憩施設がありジオラマも展示されています。

                貴重な実際の戦国時代の城下町
 谷の入口とその1.7km上流に設けられた上下(かみしも)二つの城戸(きど)で区画したのが、町の中心となる「城戸の内}です。
 ここには、この谷を南北に貫く道路と、これに直交する東西の道路が規則的に設けられ、当主の館や大小様々な屋敷が配置されています。
 大規模なものは、有力家臣の屋敷や寺院に、小規模なものは、下級家臣や職人等の庶民の屋敷であると考えられています。
 また、150万点を超す膨大なかつ内容もの豊富な出土遺物から、人々のくらしぶりがわかります。
 実像の戦国城下町と呼ばれています。              (現地の説明板より)
                   建物復元にあたって
 復元の基礎となるものは、発掘調査で検出された遺構を理解・解釈することから始まります。
 遺構の残り具合が大きく影響しますが、遺構から、屋敷の構成、建物の部屋の配置や柱の位置等の平面を判断します。
 次に、発掘調査で出土した建築部材等の遺物があれば、最も優先し、これに、同時代の建物の資料や地域の建物の特性、さらに当時の建築技術を参考として、建物の具体的な形や構造を考えます。
 この過程で、いくつかの解釈が考えられることもありますが、その中の最も妥当と思われる物を選んで実施します。

 復元事業を実施した場所は、遺構の残りも良くて、礎石配置やその大きさ等から、建物の平面が判明します。
 加えて、この柱配置から、屋根の向きやこれを支えている構造を判明します。
 柱は、出土例や礎石に残された痕から、大きさや材質、加工法が判明します。
 屋根については、瓦は出土していないこと、屋根に葺いたと考えられる板の出土があることから、板葺と判断しました。
 軒の出は、雨だれの溝から判明します。
 壁や敷居、建築工具、建築金具等の出土しており、これらから具体的な細部も判断できます。
 そして、当時の建物や、洛中洛外図等を参考とし、全体像が出来上がりました。           (現地の説明板より)

では「武家屋敷群」から見物です

この辺りは武家屋敷群で、奥の方が寺院と町屋群に分かれ中間部部辺りに復元家屋があります

ボランティア・ガイドに従って見学開始です

上級武士屋敷で出迎えてくれた説明員

                       大規模武家屋敷群
 この地区は、「一乗谷絵図」に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、これに沿って整然と配置された多くの大規模な屋敷跡が検出されました。
 屋敷は、戦国時代の城下町を象徴するように鍵形に折れ曲がり部を持つ南北方向の道路の両側にありますが、西の山麓側の屋敷の方が、東の川側の屋敷に比べ数倍大きくなっています。
 これらの屋敷の敷地間口の多くが、約30mもしくはこの1.5倍や2倍となっていることから、約30m(100尺)を基本単位として計画されていたと考えられています。
 各屋敷は、幅1.2〜1.8mの石垣を持つ小土塁で区画されています。
 これは現在復元されているようように、基本的には土塀の基礎部と考えられています。
 また、この道路に面した小土塁に門を設けています。
 その門の間口は3m(10尺)です。 この門は、西の山裾の屋敷では、礎石4個を用いた4本柱の薬医門形式を用い、東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており、格式の差が見られます。
 屋敷ののに建物については、削り取られている部分も多く、はっきりしない点もありますが、基本的には、正面南寄りに接客や主人の住まいとなると考えられる比較的整った規模の大きな建物跡が、奥の山裾近くでは、蔵や台所・家人の住まいなどと推定される建物跡が検出される傾向が認められます。                             (現地の説明板より)

「上級武家屋敷群」は区画が広く溝や土塀で区分されていました。

町屋小路

信長軍による三日三晩の焼打ちにもかかわらず
灰の中からの遺物(約150万点)により「紺屋」「鋳物屋」「数珠屋」などの跡と分かりました

灰から出た遺物150万
灰の中ら回収され150万点の遺物は「下城戸」から800mほど北の足羽(あすは)川沿いの
越美北線「一乗谷駅」前の「福井県立「一乗谷朝倉氏遺跡資料館に一部が展示されています。

いざと言う時は武士として出陣できるよう武具は用意されていたようです

中級武家屋敷は区画が大きい

中級武家屋敷が復元されています。

                  復元武家屋敷
 この屋敷は約30m(約16間)四方の基本的な広さを持ち、周囲に土塀をめぐらし、西の道路に向かって表門を開いている。
 屋敷の南半に6間×4間の主家を配し、これに接して東南隅に座敷と庭を設けている。
 北半には蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸等が配されている。
 これらの建物は、発掘調査の結果に基づき、絵画等の資料を参考にして推定復元を行った。
 屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、舞良戸(まいらど=板戸の一種)・明障子(あかりしょうじ)等の引戸が多く用いられている。
 木材の加工には、鉋(かんな)・やり鉋・ちょうな等当時の道具を用いている。
 全体に進んだ建築様式の住宅であったことが知られ、一乗谷の文化水準の高さがうかがわれ、興味深い。
                              (現地説明板より)

井戸

納屋

左の細長い建物が便所

主殿

主室

台所

納戸

まだまだ復元家屋は続きます

枡形
行先は道がクランク(枡形)に曲がり見通せないようになっています。

枡形

通りの先は「枡形」(クランク)になっていて見通せないようになっています

一乗谷川の向こうは領主館跡があります

館跡の脇から山城への道が続いています。

武家屋敷群と寺院・町屋群などの平面復元地区から一乗谷川の橋を渡り領主館跡へ向かいます

朝倉氏領主館へは一乗谷川を渡ります

橋を渡った右側には「米津(よねず)跡」(領主直属の武具などの工房)が見えます

尾根には「一乗谷山城」
橋を渡った正面に領主館を守る土塁と濠があります。 館の裏山の尾根(473m)には防塞堅固な一乗谷山城がありました。

一乗谷山城跡

                 一乗谷山城跡
 館の東側尾根にある海抜473mの一乗山城の頂上付近に山城が築かれました。
 大きな礎石がある千畳敷、土塁をめぐらした観音屋敷、赤淵神社、福井平野を一望できる宿直、小高い丘の一の丸、二の丸、三の丸などの遺構が尾根に沿って500m余りにわたって現存しています。
 その周りには空堀、堀切、堅堀、伏兵穴が多数残っています

正面濠と隅櫓跡
濠は山を背に館の三方を囲って堅固な備えとなっています

館の正面には唐門

義景館跡と館跡庭園
 第5第当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500u(約2,000坪)程の敷地があり三方は土塁と濠で囲まれています。
 常御殿、主殿、会所、茶室、日本最古の花壇のほか、台所、厩、蔵などが整然と配されていました。
 東側の山際にある館跡庭園は力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組みに京都との交流が偲ばれます。

領主屋敷内は下段の主殿を中心とした館群と
高台に分かれていて高台には湯殿庭園や諏訪館と諏訪館庭園・中の御殿などがありました。
なお足利将軍を招いて桜宴を開催した南陽寺と南陽寺庭園は館外の北にありました。

唐門を入ると6,500u2,000坪)の広大な屋敷跡が広がります

                     朝倉義景館
 この館は山城を背にして西向き3方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓を構えている。
 内部には10数棟の建物群が見られ、これらは大きく2つに分けられる。
 1つは主殿を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等も見られる。
 もう1つは常御殿(つねごてん)を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂(じぶつどう)・湯殿などもみられる。
 この他、厩(うまや)等も存在した。
 建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸(まいらど=板戸の一種)・明障子(あかりしょうじ)といった引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。
 また屋根は杮(こけら)板等で葺いていたと考えられている。
 書院造の成立過程を知る上で欠くことの出来ない貴重な遺構である。       (現地説明板より)

左から遠くに見える唐門(西門)から正面に北門、山側には湯殿
手前に主殿から中庭を挟んで常御殿(領主が日常生活する場所)・台所御清所(おきよところ=トイレ)等があります
山側には泉殿数寄屋湯殿・に続いて工事中の庭園が見えます

唐門(西門)を入ると南側隅に小高い土手が見えます

「唐門」を入ると両側の端の土塁の上に「隅櫓がありました

垜(矢場の的を置くところ)

垜(だ・あづち)弓場

垜(だ・あづち)弓場
的をかけるために、土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土。
...
上が狭く底が広い、の形に似た箱の上に細長いくくり枕をのせたもの。近世、女性が多く用いた。箱枕

倉庫
井戸の横の石が敷いてある場所が、蔵の向こうが武者溜(後ろに中門があり、その警護のためと思われる)
左奥は朝倉義景公墓所

朝倉義景公墓所前から遠侍(客を出迎えたり、供の者が控えていたりするところ)の向こうに唐門が見えます

主殿数寄屋台所など館全体の奥に湯殿庭園(一部工事中)があり一段上の湯殿庭園中の御殿跡諏訪館跡庭園へ登る階段があります

常御殿
領主と家人が生活する場所

台所

五間厩(うまや)

北門跡

南陽寺跡庭園
主殿の前を通り北へ進むと北門があり濠を渡ると南陽寺跡庭園があります。
5代103年間の間京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれました。
義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催しました。時の将軍を迎えた南陽寺の庭園は史跡に価します。

唐門と五分咲きの桜

朝倉義景公墓所

天下統一の刀根坂(とねざか)の戦いに敗れる
1573年「刀根坂の戦い」で義景は織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も三日三晩の焼討ちにあい灰燼に帰しました

朝倉義景墓
松雲院建立の頃造られたと思われる石造りの墓で、義景の法名は「松雲院殿大球宗光大居士」

                 特別名勝 乗谷朝倉氏庭園
                    (湯殿跡・諏訪館跡・義景館跡・南陽寺跡の4庭園)

 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡には、庭池の周囲に豪壮な庭石組を伴った林泉庭園から、数個の立石・伏石と小礫乃化粧敷からなる枯淡な枯山水水平庭まで数多く遺存する。
 それらの内で湯殿跡・諏訪館跡・義景館跡・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991)5月28日、国の特別名勝に指定された。
 義景館跡庭園を除いた3庭園は、庭石組などが地上に露出していたこともあり名園として知られるところで、昭和5年(1930)すでに国の名勝に指定されていた。
 しかし、その後の管理が不十分でかなり荒廃していたので、昭和42年庭池の堆積土の除去や周囲の雑木の伐採などが行われ整備された。        (現地説明より)

一乗谷朝倉氏4庭園の位置位置図(「 現在地 」とある表示は間違いです)
 (左から南陽寺跡庭園・義景館跡庭園・湯殿跡庭園・諏訪館跡庭園)

義景館跡庭園

義景館跡庭園
 義景館跡庭園は完全に埋没していたが、昭和43年の館跡の調査で発掘された。
 汀の庭石を建物の礎石に兼用するなど、建物と庭園が密接な関係のもとにつくられていた。
 庭池は数寄屋の南の山裾に設けられ、中央に滝石組がある。
 滝口の前方には水分石が、滝石組には橋峡石と石橋が遠存する。      (現地説明より)

高台へ登ります

上から見ると館跡がよく分かります

朝倉義景館
眼下に見える遺構群が、第5代当主の館跡です。
規則正しく並んだ礎石の上には建物の柱が立ち並び、建物群を構成していました。
門は西側の正門(唐門)の他に、北と南側にもありました。
 高さ1〜4.5m、幅5〜13mを測る土塁の内側の面積は6,425uを測りますが、実際の館の敷地としては背後の山の一部および
隣接する湯殿跡も空堀によって区画として取り込んでいることから、その部分も含めると約19、000uとなります。
この館では、義景が永禄11年(1568)にのちの15代将軍・足利義昭を招いて盛大にもてなしたことが、
『朝倉亭御成記』等によって分かっています

朝倉義景館復元模型写真

湯殿跡庭園

広い敷地の山裾に庭園跡があります

特別名勝 湯殿跡庭園
本庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の、回遊式林泉庭園である。
観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。

特別名勝 湯殿跡庭園
 義景館跡を見下ろす高台にあり、先ず荒々しい石組に驚かされます。  どの石も強い表情を持ち迫力があります。
 鶴岩亀岩を思わせる中島や出島があり水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉庭園となっています。
 他の庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い庭園とされています。

空堀を渡り諏訪館跡へ移動します

谷側は下の堀へと続いています。

山側は土塁が連なり防御地形を形成しています

諏訪館跡と諏訪館跡庭園跡

諏訪館跡庭園跡

特別名勝 諏訪館跡庭園 位置図(「 現在地 」とある表示は間違いです)

                      諏訪館跡庭園
 諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の館で、その庭園は、遺跡の中でも最も規模の大きなものです。
 中心の4m余りの巨石は、滝石組をなしており、全体に水平感と垂直感を基本にして安定感ある構成になっています。
 この石には江戸時代に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名が残されています。
                              (朝倉氏遺跡保存協会パンフレットより)

諏訪館跡 中の御殿跡

諏訪館跡

中の御殿跡
中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院(こうとくいん)の屋敷跡と伝えられています。
この高台は、南陽寺(なんようじ)跡や湯殿跡、諏訪館跡と並んで義景時代の華やかな生活の場であり、
朝倉義景館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろうことが想像できます。
屋敷は南の道路に対して門を構え、この道に面する南辺と東辺に土塁、さらに東辺土塁の外側と北辺に空堀を巡らしています。
また、庭園北側に規模は明らかでないが、礎石建物が検出されており、主たる建物があったと考えられます。
 北東奥には南北7間、東西2間を基本とする建物が検出されており、規模や位置などから、日常の建物と考えるのが可能です。
(現地説明板より)

土塁の上には門が造られ武者溜も設けられていました

石畳の道
諏訪館への道は雨などでも足元がぬかるまないように石畳でできています。

米津跡

                       米津跡
 米津(よねづ)は、一乗谷川右岸、上城戸(かみきど)跡から朝倉館跡に向かう中間に位置します。
 東側の高台には諏訪館跡があり、城下町の中心に近いことから、重要な場所であったと考えられます。
 米津は、土塁を巡らした敷地に、いくつかの建物跡や井戸跡のほか敷地南東では炉跡を確認しました。
 また遺物は、日常生活で使用したもののほか、刀装具を型押しした土製の型や金属を加工する材料や道具が出土しました。
 これらより、この地には朝倉氏から特別な権限を与えられ、刀装具という特殊な製品を製作したお抱え金工師が居たことが想定されています。
                                  (現地説明板より)

高台より坂を下って一乗谷の見物を終了します

一乗谷見物の次は福井市足羽(あしわ)川沿いの花見(桜)です

足羽川の桜
(あすわがわ)

樹齢約100年の桜
福井市が発行するパンフレットや多くの観光ガイドで「日本一の桜並木」と紹介されていますが、
600本、全長約2.2kmともに日本一ではないそうです。

平成16年の福井豪雨で堤防決壊
2004年(平成16年)福井豪雨が発生し、堤防が決壊し、甚大な被害が出る。
これを機に足羽川堤防を強化する必要性や桜並木の今後の在り方の議論が起こる

                        足羽(あすわ)の名由来
 足羽山は、古来いくつかの別名があり、昔の記録に木田山・善住山(ぜんじゅうやま)・足羽神社馬来田山などと書かれています。
 天正4年(1576)北庄城主・柴田勝家が、一乗谷から愛宕大権現社をこの山に移してから、しだいに愛宕山(あたごやま)とよばれるようになり、明治以降、今日の足羽山(あすわやま)に統一されました。         (福井市自然史博物館HPより)

花見酒(ビール?)で一行は元気!

近くに古来の街道「美濃街道」が通っています。

あさくら

福井県福井市安波賀中島町1−1−1

コンセプトは何か? 展示物はどこにでもある農産物と田植えの模型だけ

この水車は興味があったが近づけない!

帰り道の国道158号を越前大野市へ入った時山頂に輝く越前大野城が見えました

越前大野城

                   越前大野城
 1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築いたのが越前大野城の始まりである。築城に数年間を要した。その後、越前松平家が3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建されたが、明治維新後に破却されている。        (フリー百科事典ウィキメディアより)

有意義な越前の旅でした