岐阜県瑞浪市大湫町421−1

竜吟の滝(りゅうぎんのたき)は、岐阜県瑞浪市釜戸町の渓谷にあり、竜吟七滝、ともいわれている。
土岐川の支流の逆川(不動川)にあり、上流には防災用のダム、竜吟ダムがあり人造湖の竜吟湖がある。
名称は、かつてここには雄龍と雌龍が住んであり、互いに唸り声を上げていたという伝説からだそうです。
続けて、中山道美濃路の琵琶峠を経て、大湫(おおくて)宿までのウオーキングです。

ドラゴン21
出発は国道19号のJR中央本線「釜戸駅」前にある「ドラゴン21」のモニュメント広場からです。

地元特産の陶器製
竜吟七滝と言われる「竜吟の滝」に棲む雄龍と雌龍にちなんだドラゴン21は高さ7m重さ21t

鉢伏古墳

鉢伏古墳の詳細は分かりません

竜吟峡案内

竜吟七滝
一の滝二の滝三の滝えびす滝あんま滝昇竜滝梵天滝の七つの滝がせせらぎの小径の沿って見られます

サキソウ(らん科)
咲く花の姿が白鷺がとんでいるように見えることからサギソウと言われているそうです・

御嶽信仰の山でもあるようです

一の滝

高さは16m

絶好の位置に東屋が用意してあります

二の滝

竜が棲みそうな雰囲気が漂います

続けて滝を見物しながら登ります

やがて水晶山459m)の山頂が見えてきます

途中に休憩小屋が用意されています

水晶山山頂(標高459m)に着きました

竜吟湖(人造湖)も見えてきました

隣に水晶山より高い山が見えます
あの山には無線中継所があり車で登れる道が付いていて登山には適していません

絶好の天気に気分も最高です

竜吟湖目指してGO1

途中で道が分からなくなる!?

 

竜吟湖に出たようです

ランチタイム

山を下りたようです

農道を通って中山道美濃路琵琶峠へ

中山道へ出ました

大湫宿(大久手宿)と細久手宿乃間は1里半(約6km)。
 琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1km、古来より名所の一つです。
 ここには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(宝暦13年・1763)、
東上り口道標(文化11年・1814)等の石造物があります。
 なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十二里を示す道標です。

中山道琵琶峠道の中間地点へ出ました

左(下り)八瀬沢の集落から「細久手宿」へ  右(上り)は琵琶峠を越えて「大湫(おおくて)宿」

江戸時代の舗装道路
江戸時代から峠道は雨が降っても歩きやすいように石畳になっています
(西の宿場細久手宿への道は人が通らないのか荒れていました)

「琵琶峠東上り口」目指してGO!

琵琶峠石畳(西口坂)

瑞浪市湫町足又

                  琵琶峠
 琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m・東側53mで、中山道の難所の一つに数えられていました。
 それだけに峠からの眺望も良く、壬戌(じんじゅつ)紀行ほかの多くの文献にも書かれています。
 また琵琶峠の石畳や一里塚、それに峠の文学碑や当時の石仏も残っていて、旧中山道を偲ぶことのできる貴重な史跡となっています。     (現地説明文より)

「八瀬沢一里塚」が見えてきました

石畳道の途中 旅人が利用した水飲み場や側溝が残されています。

石畳ばかりでなく側溝も水のみ場も残っています。

琵琶峠は険しさと共に湿地の多い峠道でした。

八瀬沢一里塚
瑞浪市湫町足又

南塚が大湫町、北塚が日吉町
琵琶峠の西側中腹にあり、江戸から91里京都へ43里の地点にあります。
南塚は大湫町内で径約10m高さ約5mで、一部自然の地形を利用して構築されている。
北塚は日吉町内で径約9.5m高さ約4mです。両塚の間隔は約10m。
北塚の方が道に近 い位置にあり、南塚は北塚の2倍近く道から離れています。

                  八瀬沢一里塚
 江戸へ九十一里、京都へ四十三里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれていました。
 一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。                   (市県指定史跡)

地形上から左右多少ずれている
開発からの手を逃れ、両側の塚とも原形をとどめています。
この一里塚も地形の関係から左右が多少ずれて造られています。

「南塚」

「北塚」

八瀬沢に一里塚からあと50m程峠ほど登ると峠です。

峠道から見た「八瀬沢一里塚」

道は陽が当たらず湿気が多く苔むしています。今は風情があっていいのですが、当時は心細い道だったと思われます。

やっと峠が見えてきました。

琵琶峠と馬頭様

瑞浪市湫町

琵琶峠の馬頭様
(馬頭観音は馬の安全を祈る観音様です。旅の途中多くの馬が事故などで亡くなり、それを祈願して建てられました

苔むした馬頭観音が当時の旅人や馬の安全を見守ったことでしょう。

琵琶峠の名前の由来諸説
「琵琶の修行に来ていた京都の法師が奥義を悟った場所」
「西からの姿が琵琶に似ている」
「琵琶湖に近い伊吹山が正面に望める」などがあります。

皇女和宮の歌碑
狭い峠に「琵琶峠頂上の馬頭様」と和宮歌碑が立っています。
歌は「住み馴れし都路いでてけふいくひいそぐとつらき東路のたび」

当時、京の都では、嫁ぎ先の東の国は遠い異境の地とされ、和宮を一層不安にさせました。
江戸までの25日に及ぶ中山道の旅。山また山のこの街道を16歳の和宮はどれほど辛い思いで下っていかれたことでしょう。
大湫宿に到着する前の琵琶峠での和宮の心境を表した歌碑が建っています。

琵琶峠の見晴場文学碑群
峠の石畳乃脇に北へ登る石段があり一段と高い場所が江戸時代の旅人の「見晴場」で多くの文学碑があります。

見晴場へ行ってみましょう

峠の中山道から南の狭い脇道をしばらく登ります

琵琶峠見晴場と文学碑群

瑞浪市湫町

見晴場辺りの眺めは木が茂っていて望めません。

文学碑群

岡田文園の「琵琶坂」碑

「中山道琵琶峠」碑

太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)の「琵琶嶺」碑

天気のいい日は眺望が一番だったでしょう
大湫宿西から始まる琵琶峠は、中山道の美濃・近江両国のうちで一番高い峠(標高550m)で、北に白山、飛騨の山々、
西に伊吹山を一望する素晴らしさは往時から知られた名所の一つでした。
琵琶峠の石畳(約600m)の道を伝っていくと、鳥の声や蝉しぐれ、風の匂いが全身をやさしくつつみこんでくれるよう。
和宮の歌碑の前で、しばし和宮の心情がしのばれます。(大湫宿パンフレットより)

西口への道を下りそのまま中山道へ戻ります

峠道は大湫宿へ下ります。

中山道は大湫宿へと下る石畳が続きます

追い剝ぎ
夏は湖が下の道は涼しくて快適ですが、曇天の日は追剥などが出ないか心配な山道でしたでしょう

明るい場所に出ると旅人もほっとしたでしょう

 

峠道は終わりです

琵琶峠東口手前にも馬頭様がお祀りしてあります。

東上り口にも「馬頭観音」があります。
重い荷物を背に長い坂道を登る馬も大変だったでしょう

琵琶峠の石畳(東口坂)碑

瑞浪市湫町

琵琶峠東上り口の石仏群

              琵琶峠の石畳(岐阜県史跡)
中山道は途中国道になって拡幅やルート変更され当時の現状を残すところが少なくなっております。
 こうした中で、瑞浪市内の釜戸(かまど)町・大湫(おおくて)町・日吉(ひよし)町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、よく原形をととどめています。
 特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは八瀬沢(やせざわ)一里塚や馬頭観音等が現存し、当時の面影を残しています。
 昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。
 歴史の道整備事業活用事業の一環として、平成9年度から12年にかけて石畳や一里塚など整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。      岐阜県教育委員会 瑞浪教育委員会 (現地説明板より)

今は峠の下るとを中山道は舗装道路され「細久手宿」方面まで「琵琶峠」を通らず車で走れます。

峠を下りて大湫宿までの途中に「大湫の二つ岩」(男岩・女岩)・「大洞口の馬頭様」「小坂の馬頭様」
「紅葉洞の石橋」
などの江戸時代からの名所を見物しながら通ります

「琵琶峠東上り口」から東へ大湫病院を右に見ながら360mほど進むと「母衣岩・烏帽子岩(二つ岩)」へ来ます。

母衣岩・烏帽子岩(二つ岩)
瑞浪市湫町

弁慶の忘れ物
安藤広重の絵にもある、花崗岩が露出したものです。
「琵琶峠東上り口」から県道65号線を、東へ向かうと、烏帽子岩(えぼしいわ)・母衣岩(ほろいわ)の順で大きな岩を目にすることができます。
これらの岩は、「二つ岩」とか、岩の形から「夫婦岩(陰陽岩)」とも呼ばれ、江戸の時代から中山道で有名な存在でした。
また、弁慶が旅の途中、鬼岩から取ってきてお手玉にしながら歩き、ここに置き忘れたという伝説もあり「弁慶岩」とも呼ばれています。

手前の大湫宿に近いほうがが母衣岩(ほろいわ=陰)、向こうに見えるのが烏帽子岩(えぼしいわ=陽)

             「壬戌紀行」碑『中山道二つ岩』
 太田南畝の「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)碑には、別名「夫婦岩」と紹介し次の文が
『一つを烏帽子岩という、高さ二丈(約6m)はかり、巾は 三丈(約9m)に余れり、また母衣岩というは高さはひとしけれど巾はこれに倍せり』

母衣岩(ほろいわ=陰

 

「壬戌紀行」碑

烏帽子岩(えぼしいわ=陽)(上の部分が木に隠れて映倫をパス?)

この辺りは「二つ岩」以外にも大きな岩がゴロゴロしています

母衣岩・烏帽子岩(二つ岩)」から20m東を見ると「小坂の馬頭様」の休息所が見えます。

大洞の馬頭様休憩所
瑞浪市湫町

ここら辺りが安藤広重の「大久手宿」が描かれた場所と言われています。

休憩所の脇に「小洞の馬頭様」があります

木陰の奥の方にお祀りしてあります。

「大洞の馬頭様」から街道を東へ140mほど進むと「小坂の馬頭様」へ出ます。

小坂の馬頭様
瑞浪市湫町西

馬頭観音が二体お祀りしてあります

「小坂の馬頭様」から東へ20mほどの場所の道の両側に見過ごしてしまいそうな小さな”石の欄干”があります
それが江戸時代には名物だった「紅葉洞の石橋」です。

紅葉洞の石橋
瑞浪市湫町西

江戸時代は石の橋は珍しかった
江戸時代の中山道はは道路幅も狭く石橋らしく見えたでしょうが、
現在は道路拡幅によりは石の欄干だけが道の両側にあり橋らしく見えません。

南側の石の欄干

北側の石の欄干

橋の欄干に何か文字がありますが読めません

橋の下を流れる小川は昔と変わらないでしょう

「紅葉洞の石橋」を東へ200mほど進むと「大湫宿西口」へ差し掛かります。

大湫宿の西口へ到着しました。

「大湫宿西口」

                                 大湫宿概要
 海抜510mの高地に、江戸から47番目の宿として、慶長九年(1604)に新たに設けられた。
 東の大井宿(現在の恵那市)へは三里半(14km=歩いて3時間半)、西の細久手宿には一里半(6km=歩いて1時間半)と、美濃16宿で最も高く、それだけに人馬とも険しい山道が続く難所に開かれた宿場でした。
 東に枡形(ますがた)を設けた宿の中心には、今も当時のまま神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。
 脇本陣の保々家(江戸中期)、旅籠三浦家(江戸末期、問屋の丸森森川家(江戸末期)新森森川家(明治)の四棟は、建造物として国の登録有形文化財に登録されています。
                       (瑞浪市  現地説明板より)

大湫宿内の名所位置図

@:十三峠の文学碑
A:大湫宿東駐車場
B:宗昌寺と石造物群
C:尾張藩大湫白木番所跡(尾張藩所有のヒノキの管理所)
D:大湫公民館(高札場の掲札の本物を展示)
E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
H:大湫宿問屋場跡
I:白山神社
J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
K:神明神社の大杉
L:新森 森川家(国・登録有形文化財)
M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
N:高札場
O:大湫西駐車場         

上図の15番の「高札場」から順次、大湫宿を歩くことにします

N 大湫宿高札場
瑞浪市湫町西

現在の高札場は平成十年(1998年)に歴史の道整備事業によって復元されました。
江戸時代には「札」は10枚あってかなり大きな高札場でした。
(10枚の本物の札は宿の市役所大湫連絡所に掲げてあり後ほど紹介します。)

               江戸時代の宿の決まり
 宿場には幕府の定めにより必ず「高札場」「問屋場」「本陣」「脇本陣」を設けなければなりませんでした
 「高札場」:奉行からの「定(さだめ)札」や「覚(おぼえ)札」などを掲げて宿内や旅人に知らせる場        所で時代劇など見る指名手配の似顔絵などの掲載はもっての外できつく罰せられました。
       (触れ札は何年も掲げられ文字がかすれたり、読めなくなっても加筆などは許されませんでした)
 「問屋場」:宿場を取り仕切る宿役所で「問屋役」、「年寄役」、「帳付役」、「人馬指図役」などの宿役人が毎       日詰めていた。公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全体       についての指図や業務を行っていた。特に参勤交代の行列通過や大名の宿泊手配などにそそう       が無いよう、また宿場だけでは人数が不足する場合「助郷」(近隣の指定された村などへの使役       の供出)の手配など万事宿場の業務一切を取り仕切りました。
 「問屋」:宿から宿へと荷駄を運ぶ馬と馬子の人数が役所から指定され員数だけ常備を指示され物流が滞       ることの無いよう命じられていました。また荷駄も次の次の宿まで通しで運ぶことは禁じられてお       り、効率は悪くコスト高でした。
      この方法は戦国時代から平穏な時代への切り替わり時期には国内の物流を安全に運ぶ手段とし      てにはよかったのですが、世の中が安定し発展すると、物流コストがかさむようになり、また時間が      掛かり時代に即応できなくなりました。そこで「中馬(ちゅうま=出発から終着まで同じ馬と馬子で運      び宿場ごとで荷を積み替えなくてもよい)」という制度も一部許可されましたが、この制度は宿場の      問屋は荷駄の扱いが少なくなり経営が出来なくなる問題が発生しました。  
 「本陣」は大名が参勤交代で旅をする時の宿で警備も厳重でした。
      幕末頃には大名も経費が掛かる参勤交代を少人数で隔年にするなどしため本陣は経営が出来ず
      こっそりと民間人などを泊めるなどして問題が発生しました。
 「脇本陣」は2つの大名が同じ宿場に泊まるとき格式の低い大名が宿泊するのに使われましたが、利用率      が悪く平素から経営難が続きました。

問屋場とはなどの宿役人が宿役所のことで、

現在「高札場」に掲げられてる札はレプリカで本物は大湫会館に展示されています。

駕籠屋や馬子が法外な料金を旅人に吹っかけないよう料金を定めたり
 駄賃(一頭の馬に載せられる荷駄の重量と値段)の取り決め                      
 川越え(幕府は平時でも大規模な兵員の移動ができないよう橋を架けず、人足による瀬渡しをさせ
      ていました)の料金や出水時の川止めの決まり、増水時の料金の割り増しなど事細かに定めていました。                                        

幕末の頃はインフレで一両が一両で通用しなくなり料金改定が頻繁に行われるようになりました。
現在の世の中と同じ現象
 これらの定めは戦乱の世から平和な世へ移る時には、貢献しましたが、世の中が落ち着いてくると、世の中の経済発展を阻害するようになり、物価の高騰、物流の遅滞など弊害が多数発生するようになり幕府末には指導が行き届かなくなりました

             高札場
 高札場とは江戸時代に三定(?)など幕府からの村民の心得や板書札を掲示した場所のことで、宿場の場合は旅人の道中心得や人馬賃銭など道中奉行からの高札も掲げられたから大湫宿の場合もこのように立派なものになった。                (現地説明板より)

高札場のすぐ東の階段を登ると大湫観音堂があります。

 M 大湫観音堂と絵天井・石造物群
瑞浪市湫町西

「大湫宿に過ぎたるもの」とうたわれた観音堂は、もと神明神社境内にありましたが、
享保六年(1721年)に宿の西口に移されました。
文政七年(1824年)の宿の大火で焼失し、現在の堂は13年後の弘化四年に再建されました。
付知の画人「三尾暁峯」が描いた60枚の絵天井は、瑞浪市文化財です。
境内には宝暦の傘地蔵、享保六年(1721年)の念仏講碑、芭蕉句碑など古い石造物群、老しだれ桜があります。

観音堂は「高札場」の東の中山道から石段を登った所にあります

観音堂の境内から大湫宿内が一目でわかります

                     大湫宿観音堂
 道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。
 現在の建物は、弘化四年(1847=明治になる20年前)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿場の当時をしのぶことができます。            (現地説明板より)
天井絵、これも大湫宿に過ぎたもの、と言われていました。

境内の石造物群
 老しだれ桜、石仏、堂内天井絵など遺物が多く、とくに堂内の天井絵は、
 虎の絵で著名な岸駒に師事した恵那郡付知村の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。
 花鳥草木を主に六十枚描かれており、出来も色彩もよく百数十年の月日を感じさせない。
 なお、天井絵は観音堂の窓ガラス越しでしか見ることができません。

芭蕉句碑「花ざかり 山は 日ごろの あさぼらけ」

さて、宿内の中山道へ戻り東へ200mほど進むと南側に問屋 新森 森川家があります。

 L 問屋 新森 森川家

(国・登録有形文化財)

問屋新森 森川家の筋向いに大杉で有名な神明神社があります

@:十三峠の文学碑
A:大湫宿東駐車場
B:宗昌寺と石造物群
C:尾張藩大湫白木番所跡(尾張藩所有のヒノキの管理所)
D:大湫公民館(高札場の掲札の本物を展示)
E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
H:大湫宿問屋場跡
I:白山神社
J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
K:神明神社の大杉
L:新森 森川家(国・登録有形文化財)
M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
N:高札場
O:大湫西駐車場         

K 神明神社の大杉 

 宿の中央にあり、慶長十三年(1608年)に再建されたといいます。
 境内の大杉は樹齢1,300年で、大湫のシンボルです。岐阜県天然記念物指定でもあります。
 また、この大杉と共に「大湫宿に過ぎたるもの」とうたわれた観音堂は、もとこの境内にありましたが、享保六年(1721年)に宿の西口に移されました。
                    (現地説明板より)

拝殿が変わった形です。

 

鳥居の横の灯篭に「文化四年(1807明治になる60年前)」の文字が見えます。

本殿の前に樹齢1300年の大杉
大湫宿には過ぎたものがあると旅人に言われていた樹齢1300年以上の大杉です。

どれだけカメラを振り回しても「大杉」が大きすぎて収まりません

神明神社大杉の根元から神明元泉と呼ばれる清水が湧き、旅人たちの貴重な飲料水となっていました。
「大湫宿に過ぎたものが2つあり、神明神社の大杉と観音堂」といわれてきました、とんでもない巨木。
太田南畝の旅日記「壬戌紀行」の中にも
「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」
と表しています。
その時代からすでに大湫宿のシンボルだったのでしょう。
(現地説明板より)

神明神社大杉から東へ80mの街道の北に大湫宿脇本陣「保々家」があります

J 大湫宿脇本陣「保々家」
(庄屋・問屋役兼帯)

街道から石段を上がり門の奥に脇本陣があります。(現在も住宅として住まわれているため中へは入れません)
大湫宿脇本陣
本陣、脇本陣は大名や公卿など身分の高いものの宿舎として「建てられたものです。
この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳数153畳、別棟6という広大な建物でした。

本陣と同じく「上段の間」「下段の間」「玄関式台」など設けた格式の高い構えだったそうです。
今は大半の建物は壊され半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。
(現地説明板より)

大湫宿脇本陣を東へ50mほどの北側に白山神社参道があります。

I 白山神社

本殿はかなり奥の方
中山道からかなり奥に鳥居があり、その奥に灯篭が、またその奥に長い階段が続きます

大湫宿白山神社参道わきに問屋場跡があります。

H 大湫宿問屋場跡

大湫宿問屋場跡
 問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全体についての指図や業務を行っていた。
(現地説明板より)

F大湫宿問屋場跡から東へ200mほどの北側にG 大湫宿本陣跡(大湫小学校校庭)があります。

@:十三峠の文学碑
A:大湫宿東駐車場
B:宗昌寺と石造物群
C:尾張藩大湫白木番所跡(尾張藩所有のヒノキの管理所)
D:大湫公民館(高札場の掲札の本物を展示)
E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
H:大湫宿問屋場跡
I:白山神社
J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
K:神明神社の大杉
L:新森 森川家(国・登録有形文化財)
M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
N:高札場
O:大湫西駐車場         

本陣跡へ入る石段だけが当時を偲ばせます

G 大湫宿本陣跡
(大湫小学校校庭)

                    大湫宿本陣跡
 大湫宿本陣は現大湫小学校校庭にあり間口二十二間(約40m)、奥行き十三間(約27m)、部屋数23、畳数230畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武家たちのための宿舎でした。
 また 比ノ宮(享保十六年 1731)
     真ノ宮(寛保元年 1741)
     五十ノ宮(寛延二年 1749)
     登美ノ宮(天保二年 1831)
     有 姫 (  同   年  )
     鋭 姫 (安政五年 1838)
などの宮姫ほか皇女和宮が十四代将軍徳川家茂へ御降下のため(文久元年1861)その道中の一夜を過ごされたのもこの本陣です
                                  (現地説明板より)
都が恋しい和宮のこころ
和宮の宿舎となった本陣跡(大湫小学校校庭)にはこれを記念して歌碑が立てられています。
歌は「遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」
「思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは」
の2首です。

G大湫宿本陣跡(大湫小学校校庭)の向かいにF問屋 丸森 森川家があります。

F 問屋 丸森 森川家跡

現在は大湫宿休憩所となりトイレなどがあります。

F問屋 丸森 森川家の隣が国・登録有形文化財のE:旅籠・三浦屋です。

E 旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)

E:旅籠・三浦屋の向かいがD 瑞浪市役所・大湫連絡所と大湫公民館です

D 瑞浪市役所・大湫連絡所大湫公民館

連絡所入り口に泉があります。

中山道大湫宿「水分(みずわけ)之泉」の由来
湫宿は海抜510mの高地にあり、木曽川水系と土岐川(庄内川)水系との分水嶺線上の位置にあります。
そうしたことから、この水分之泉にも湫宿民が江戸時代から大切に使用してきた
木曽川水系の「大戸水道」と土岐川水系の「神明水道」の双方の水源水を引き、流末は再び双方へ
分かれて戻っていくようになっています。
(「水分」とは古代から日本の水神である水分之神の意味であります。)
(現地説明板より)

館内には中山道の資料のほかに高札場に掲げてあった本物の高札10枚が架かっています。

C大湫宿尾張藩白木改番所跡は中山道の突き当り(枡形)を街道から山の方へ反れた場所にあります
(これは禁制のヒノキなどを無断で山から持ち出すのを防ぐため山の出口に置いたと思われます)

@:十三峠の文学碑
A:大湫宿東駐車場
B:宗昌寺と石造物群
C:尾張藩大湫白木番所跡(尾張藩所有のヒノキの管理所)
D:大湫公民館(高札場の掲札の本物を展示)
E:旅籠・三浦屋(国・登録有形文化財)
F:問屋 丸森 森川家(     〃     )
G:大湫宿本陣跡(大湫小学校)
H:大湫宿問屋場跡
I:白山神社
J:脇本陣保々家(国・登録有形文化財)
K:神明神社の大杉
L:新森 森川家(国・登録有形文化財)
M:大湫観音堂(市指定文化財)と石造物群
N:高札場
O:大湫西駐車場         

C 大湫宿尾張藩白木改番所跡

現在は民家となっており倉庫の壁に説明文があります。

大湫宿尾張藩白木改番所跡
木曾の山々は、檜(ひのき)などの良材の産地なので尾州藩
(尾張藩)では川並奉行所を置いて管理伐採に当たらせ、
材木は木曽川を利用して錦織(八百津)まで流しました。
湫役所は、元禄七年(1694年)に設けられた後平番所に改められ
東濃地方一帯の山林と木材の管理を行いました。
(現地説明板より)

B 大湫宿宗昌禅寺は中山道まで戻り大井宿(恵那市)まで向かう途中13もの峠がある難所の入口にあります。

B 大湫宿宗昌禅寺

控え本陣としても用意されました
天正年間(1573〜92年)湫村を開いた保々宗昌が、慶長五年(1600年)に開基しました。
本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用されました。

門柱脇の坂を上がると名号碑があり山門へ続きます。

「三界萬霊寺」と読めます

坂を上がって左に曲がると山門が見えてきます

          宗昌禅寺は女人講としても有名
 女人講は古くから女性どうしが集まる信仰の場であるとともに、日常生活の情報を交換する場でもありました。
 江戸時代は武家社会で特に農村や山間部では女性の地位が低く、日常のストレスを発散できる場がなく信仰を隠れ蓑にしてお寺に集まる講をつくり男性も正面切って反対できないシステムをつくったのが女人講です

鐘楼前には石仏群が並びます

境内には文化十一年(1814年)女人講、宝暦四年(1754年)の宝篋印塔、同十年(1760年)の石灯籠、

山門からの眺めは最高で宿はずれの高札場までよく見えます。

寺前の中山道を大井宿へ向かうところに「@十三峠の文学碑」があります。

@ 十三峠の文学碑

「是より東十三峠」の碑と寺坂、
太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌(じゅんじゅつ)紀行」の十三峠に関する記述の文学碑なども立ちます。

       中山道十三峠
 十三峠は幕府の命令によって慶長八年(1603年)に改修
工事が始められ、翌九年に開道しました。
 大湫(おおくて)〜大井間は「十三峠におまけ七ツ」
呼ばれる険しい山坂道でしたが、
 その反面木曽路も近く、石仏、風物にも恵まれ旅人からも
親しまれた三里半(約14km=3時間半)のコースでした。

寺坂を下りたところにある寺が女人講碑で有名な臨済宗の寺「宗昌禅寺」です。

中山道寺坂

宿内の無事と中山道を行く人々の安全を祈願して、大湫(おおくて)宿を
一望できる寺坂の中腹にあります。
正徳三年(1713年)の念仏碑や古い馬頭観音像などが並んでいます。

このまま東へ三里半(14km=三時間半)歩くと大井宿へ着きます
今回はここから宿内へ戻り「釜戸水晶山」から「中山道琵琶峠」〜「大湫宿」の旅を終わります。

午前中は快晴の上天気でしたが後半は曇り空となりました。最後までお付き合いありがとうございました。