長野県木曽郡木曽町福島

中山道木曽路の木曽福島宿と四大関所があった福島関所跡と代官屋敷跡、宿内の高札場跡、城山にある
木曽義仲が戦勝祈願をした権現滝、山頂の福島城址、木曽義仲墓所がある興禅寺などを散策してきました。

広大な代官屋敷
駐車場の石垣まで代官屋敷の続きだそうです。

「中山道東西中間之碑」は「道の駅日義木曽駒高原」へ移設
木曽福島は中山道東西中間の地(江戸・京都双方から六十七里(約266km)と日本四大関所の地です。

関所を置く場所に最適地
両側を山に挟まれ町中を木曽川が流れ、町の入口の狭い場所に関所があり、関所を抜けようとしても無理な地形です

公営駐車場を出て西へ
代官屋敷を目指して歩きます。(この石垣から道の突き当りまで代官屋敷だったそうです)

代官屋敷が見えてきました

山村代官下屋敷跡
木曽氏の重臣として活躍した後、徳川直轄支配をまかされて木曽代官として、
270余年間木曾谷を支配していた山村氏の下屋敷。
木曽の山林と関守を兼ねた権力は強大で、屋敷は豪壮を極め、
現在の福島小学校を含む敷地に屋敷と20の庭園があり、現存する下屋敷と築山泉水の庭はその一つです。

入場料:300円

                            木曽川と崖家造り(がけやづくり)
 この辺りの木曽川沿いは谷が深く山が木曽川近くまで迫っている険しい地形のため、旧中山道の時代から宿場が展開していた福島宿は、街道と木曽川の狭い土地を利用して家や商店を建て、いつからか川沿いの崖を居住空間に利用することとなりました。
 街道から見ると2階建てでも、川沿いから見ると3階建てや3階半や四階建てとなっています。

橋の向こうが中山道
橋の袂に「木曽川親水公園」があり無料の足湯もあります。

                御嶽街道入口
 江戸時代に中山道から御嶽街道への入口として多くの御嶽信者が渡っていた行人橋を同じ場所に復元されました。
 「御嶽」は岐阜県と長野県の境にある、標高3,063.4mの「王の御嶽(おうのみたけ)」と呼ばれ「御嶽」と書いて「おんたけ」と読み古くからの信仰の山への「街道」が各地からあり、その一つです。

城山登山口
(権現滝城山自然遊歩道入口)

木曽川と城山に挟まれた道路のから狭い山道へ入ります。

城山頂上まで1時間半から2時間の行程です。

効率の良い登山
登りは地図の「現在地」から権現滝を経て(地図の左方)福島城址へ
下りは城址を本丸→二の丸→三の丸から紅葉ヶ丘を経由して興禅寺へ出て木曾義仲墓所・関所跡・高札場跡などを見物します

登山口(10時50分)道標に権現滝=0.9km・福島城址=2.9km

最初は上り下りの激しい、急な坂道が続きます

出発から約400m(所要時間14分)

山の神石祠(やまのかみせきし)
城山の森は、明和四年(1767)に伊勢神宮の御用材として1万本が伐採された。
諸事覚書によると、伐採した木材を運ぶため、六月二十五日に「川狩り」を始め、
七月と八月の満水(大水)で錦織綱場(現在の岐阜県八百津町)に、4,616本が着木した事が記されています。
山の神石祠は、この作業の安全を祈願するために建立されました。
(現地説明板より)

行人橋を過ぎると「権現滝」は間近です。

                権現滝
 この滝は、城山国有林の中を貫く角岩層(かくがんそう)の岸壁に懸(か)かり、高さ25mあります。
 伝承によると木曾義仲が挙兵しの際に御嶽山大権現を勧進(かんじん)して沐浴(もくよく)祈願した場所であり、以後、権現滝と命名されたと言われています。
 また江戸時代には御嶽の中興(ちゅうこう)開山覚明(かくめい)行者が山村家の祈願所、願行寺(がんぎょうじ)のもとにあって修行し中この滝で水行(すいぎょう)を行ったともとも伝えられています。                 木曽町 (現地説明板より)

滝の脇を通り登ります

福島城址まで1.9km 出発から約1km(所要時間約50分)

途中「木曽福島」町がよく見える場所へ出ます

三つの城址
「城山史跡コース」の先に「福島城址」があり木曽川の対岸に「上の段城址」とその西南に「小丸山城址」がります。
これらの城址は、この木曽福島が幕府の直轄地となる前の戦国時代のもので
幕府の財政を支えた木曾ヒノキと戦略的に重要な木曾谷の地を直轄地として代官所と関所を置き廃城となったと思われる。
(管理者所感)

福島城址まで0.7km 出発から約2.2km(所要時間約1時間半)

福島城址まであと50m

本丸への最後の坂道です。

福島城
本丸跡

本丸へ到着 (出発から約1時間40分

「さーランチタイムだ!」

 歴史上の木曽福島城
福島城は、戦国末期の天正年間初頭ころから歴史に名前を出し、
天正八年(1580)に越後の上杉景勝に攻撃されたが、木曽氏は福島城を守りとおす。
その後甲斐国の武田氏戸同盟を結ぶが武田氏が衰退の兆しが見えると、
天正年間初に織田信長の離反工作に応じて内通、激怒した武田勝頼は木曽に攻め込むが、
当時の当主木曽義昌は織田家と連携して、武田軍を迎撃し、これを防いだ。
そして武田氏滅亡後、木曽義昌は織田信長に従うが本能寺の変で後ろ盾をなくする。
戦国時代後
天正年間末、豊臣秀吉の小田原城攻めに木曽氏が参陣しなかったかどによって
豊臣秀吉に領地を没収され
下総網戸(千葉県旭市)に移封された。
その後この地は、豊富な木曽ヒノキなど物流の要地として、徳川幕府確立後、
この木曽に代官所を置き幕府直轄地としたためし廃城となり城の歴史は約50年の短い運命でした。

(向城)城山古城跡
この城は、天文年間木曽氏十八代の領主「義康(よしやす)」によって福島城(上の段城)の詰の城として築かれたものといわれ、
向城(向かい側の城)と呼ばれていたことを現在の地名によってうかがわれる。
この位置が本丸跡、南東の低丘が二の丸、その間を画するくぼみは空堀の跡である。
続く平坦の場所が三の丸でこれも空堀によって区画されていることがはっきりとわかる。
要害堅固な戦国末期の典型的な山城形式をうかがうことができる史跡として貴重である。
木曽福島町 (現地説明板より)

以上の説明で不明な点
上の説明では「福島城(上の段城)の詰の城として築かれたものといわれ、向城(向かい側の城)と呼ばれていた」とありますが
山道の途中にあった「城山史跡の森遊歩道」の看板には現在の地の城が「福島城跡」と記され
木曽川の対岸にある城跡が「上の段城」とのみ記されて本丸の説明板と途中の地図の説明と違います。
しかし、「城山史跡の森遊歩道」の看板には「上の段城」の南西の木曽高校脇に「小丸山城址」とあり
ここには三つの城跡があったことが分かりました。
これらのことを勘案すると、平時は木曽川の対岸の「上の段城」は木曽氏の館で、
この山城跡は「向城」と呼ばれる「詰の城」で戦時には福島城と呼ばれ木曽高校横にある「小丸山城」は「出城」と思われます。

              木曽福島城の運命
 戦国時代、木曾義康により築かれた。平時は、下にある「上の段城」を館とし、この「山城」を詰の城とした。
 木曾義昌も居城とした。徳川家康は豊臣秀吉側についていたので小笠原貞慶に木曽福島へ攻め込ませるように命じた。徳川家康とともに関東に移封され、城は廃城となった。(ウィキペデアより)

上り下りは別ルート
登りは権現滝を見ながら上り一の郭(一の丸)へ、下りは二の郭(二の丸)から三の郭(三の丸)を経て紅葉ヶ丘へ

本丸から二の丸へ

本丸と二の丸之間に深い空堀があり昔の人は大変だったと思います

二の丸へ

二の丸跡

本丸に比べると一層狭い! ここに塀・門を造り、櫓を造ると多数の人員は収容できないと思います。

三の丸へ

二の丸から三の丸へ

また深い空堀が
昔は武具を付け長い槍などを持って歩くので戦いどころではなかったでしょう。

郭丸には塀や門があって守りは堅かったと思われます。

空堀の底

三の丸へは長い尾根を通ります

三の丸へ

三の丸跡

二の丸よりもっと狭くて細長い敷地です。

木が生えて往時の面影は窺い知れません

遠くの御嶽もよく見えました。

三の丸から麓へ

ヤット山道らしい道になりました。

木曽福島の街が見えてきました。

興禅寺から300mほどの地点へ出ました.。

興禅寺へ

興禅寺

萬松山興禅寺 臨済宗妙心寺派
木曾義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提所の木曽三大寺の一つである。
当寺は、承亨六年(1434)木曾義仲追勝供養のため木曾家十二代信道公が荒庵していた寺を修復再建した。
しかし、昭和二年の福島町大火によって全焼し、後に復興したものである、
 勅使門:室町時代の建築様式で、明治四三年に保護建築物(重油文化財)に指定されていたが大火によって焼失したた
め、昭和二九年に原形通りに復元したものである。                              
観音堂:(昭和三〇年の再建、義仲公木像(焼失)の体内物を安置する。推古時代の作と伝えられる金銅仏である。  
以下略
(現地説明板より)

本堂付近が工事中で足場の写らない位置から撮影しました

画像

興禅寺
 「看雲庭」は大きな枯山水の庭が有名で、広さは日本一です。
 「万松庭」は小さな池泉鑑賞式の庭で、この対照的な日本庭園の趣を楽しめます。

木曽義仲公

巴御前の墓と巴松
木曽義仲とともに戦い「木曽最記」には「巴は色白く、髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」
等と綴れれており謎之多い女性戦士でした。この松とのいわれは不明です。

その奥に木曽義仲の墓所があります

                     木曽義仲の墓
 ◎木曽義仲子公の墓、石段正面中央の宝筐印塔、義仲は久寿元年(1154)武蔵国(埼玉県)大蔵館で生まれた。
                幼名は駒王丸、二歳の時、父義賢が、兄の子義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいでこの近くの、
                上田にあった中原兼遠の屋敷にかくまわれて成長した。
                元服の後、宮ノ越(日義村)に館を建てて移った。
                治承四年(1180)、以仁王の平家追悼の令旨を受け、関東、北信濃で兵を集めて北陸より京都に攻め                入り平家を追討。  征夷大将軍となり朝日将軍と称せられた。
                元暦元三年(1184)頼朝の軍に攻められ、近江(滋賀県)粟津原で討ち死にした。
                年三十一才。遺髪を納め、分霊はここに眠る。
 ◎木曽信道公の墓  右側。興禅寺開祖。(1389〜1439)木曽十二代領主
 ◎木曽義康の墓    左側。木曽氏十八代(1514〜1579)領主 。墓地裏山の福島城を築いた。
 ◎木曽義昌高の墓   木曽氏代十九代領主。(1540〜1595)武田信玄と戦い、和睦、信玄の娘万里姫を奥方に迎えた。
                                     後、豊臣秀吉により下総網戸(千葉県旭市)に移封された。

木曽川渡り関所跡へ向かいます

木曽福島関所跡

中山道に大きな冠木(かぶき)門があります
江戸時代もあった冠木門を通り関所へ入ります。(車が走っている広い道は旧国道19号で昔は無かった)
 画像の脇の狭い石段は当時使用人等が関所へ通うための通勤路だったのでしょうか?

関所口へ

江戸時代もこんな風景だったのしょうか?
関所は暮れ六つで門を閉ざします。 このため正確な時計を持ち合わせない旅人は門が閉まると
門の外で一夜を明かさなければなりません。このため門の外には食事処や旅籠があったことでしょう。

木曽川の対岸から見た関所の全景
余りに広い(長い)ので超広角で画像が湾曲しました。

この辺りに「東門」
そして奥に見える門が出口の「西門」。 その間に番所がありました。(現在は芝生)
西門を出ると中山道は「池井坂」を下って木曽川沿いの道を妻籠宿へ向かいました。

関所跡は身を削られ放題
関所の山側は国鉄中央本線(現JR)のため半部以上削られ、木曽川側は国道19号開通時に大きく削られ放題

                 国史跡 福島関所跡
                     (昭和54年3月指定)

 福島関所の創設された年代は明らかでないが、中山道が開かれた慶長七年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして碓井関所、箱根関所、新居関所などの四大関所に数えられる。、
 碓井
(うすい)関所:(群馬県安中市松井田町横川にあった関所で元和九年(1623)、江戸幕府によって置かれた中             山道の関所跡)、
 箱根関所  :   
(神奈川県箱根町=相模国足柄下郡箱根に江戸幕府によって元和5年(1619)から明治2年              (1869)まであった関所、
 新居
(あらい)関所:旧名「荒井」は、静岡県湖西市に所在する江戸時代の東海道の関所。浜名湖西岸の標高約             2mの低地に立地し、主要街道の関所建物としては、現存する唯一の建物である。
 当時、天下の四大関所と称していたものである。
 福島関所は当初から代官山村氏が代々その守備に任じ、明治二年までその機能を果たしてきた。
 この関所は、各藩境界等に見られる番所類と機能を異にし特に「女改め」と鉄砲改め」に重点を置かれていた。
 中山道が東海道とともに当時江戸と京都を結ぶ幹線の道路としてされていたことや、「女改め」の手形の本紙はこの関所に「留め下り(江戸へ向かうもの)」のものについては、ここから碓井関所へ「書替手形」を発行する、とされことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重大視されていたかがうかがわれる。
 廃関後、関所の諸設備は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんどとどめていなかったが、昭和五〇年夏の発掘調査の結果寛文年間(1661〜1670)頃のものと推定される    (現地説明文より)

木曽川側は旧国道19号拡幅のため関所の敷地を大幅に削除されました。

井戸は石垣の縁ぎりぎり
この井戸も江戸時代は関所の庭の真ん中あたりにあったのでしょう

井戸跡と築地塀跡
山側は国鉄中央本線(現JR中央本線)開通のため大きく削除されました。

すぐ後ろを列車が
資料館の屋根のすぐ後ろを列車が走ります。

西門跡
このため関所を復元できず、見学通路を狭くして資料館と展示館を西へずらして建てたので西門の外へ出てしまいました。

この門は模擬東門です。

模擬東門へ入ると
前庭はなく下へ下る道と分かれます。下へ下る道は旧中山道の「池井坂」にあたります。

模擬上番所(奥は展示室)
幕があるのが武士などが改められる「上番所」。 その左が町人などを改める「下番所」でした。

番所を通ればやれやれ無事通過となり西門を出ることができます。

これは現在の入場門(入場料:大人300円子供150円)

資料館に展示されている関所のジオラマ
上が山側で当時は木曽川から切り立つ崖のすぐ上に設けられていた。
現在は崖が切り崩されて道(旧国道19号)となっている。
 このジオラマで見ると木曽川を渡る橋は当時から架けられていました

関所脇に当時からあった屋敷

高瀬家資料館

                   高瀬家資料館
 高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄(きくちひごのかみのりずみ)を祖としそののち高瀬と改め、則澄より四代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のころ木曽福島に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕えて以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役(おそばやく)、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。
大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したものの旧家の風情を今もうかがうことができます。 (現地説明板より)

関所跡から見た福島の街。この間に木曽川が流れています

「上の段」の地図

関所を抜けると上の段の街並みへ出ます。

上の段

突き当りに「高札場」があります。

古い町並みが残る「上の段」
古い町並みが残るこの地区を「上の段」という。
宿場は江戸幕府の命により防塞の施設としても作られており、敵の進入を阻むため道を「鍵の手」に折り曲げたり、
急な坂道や道の両側に石垣を作ったり、いわゆる「枡形」を設けており、この地区のはその地形がそのまま残っている。
また上の段は、木曽義仲から十九代目の木曽義仲の居城「上之段城」があったところで、その郭内として多くの道筋が通っており由緒ある小路が残っている。

高札場

高札場(こうさつば)
江戸時代、御条目(おじょうもく)やお触れは、制札として一定の場所に掲げられていました。
これが高札で、高札場のことを「御判形(おはんぎょう)」ともいいました。
高札場は柵を結って近寄ることができないようにして、中には栗石が敷きつめられていました。
高札場は、宿村間の里程(りてい=距離)を測る基準として用いられましたので、容易に移設の出来ない場所でした。
また高札の文字の不明になった場合でも勝手に墨入れすることが禁じられ、領主の権限によって行われました。
この高札場は、天保九年(1838)に八枚の札が掲げられている様子を再現したもので、上より「福島より上松への駄賃銭」{親子兄弟人の道」「駄賃荷物の定め」「きりしたん禁制」「徒党強訴(ととうごうそ)の禁止」「毒薬売買にせ金禁止」「火付け盗賊五ヶ条の定め」です。
この高札は、実際の2/3の大きさ縮小してあります。
木曽町 (現地説明板より)

中山道は高札場の前を通り「上の段」から下ります。

山村代官屋敷から木曽川に架かる「大手橋」を渡り信号のある交差点の突き当りにあります。

木曽福島宿本陣跡
(木曽福島支所)

福島宿本陣跡

木曽福島宿本陣跡(木曽福島支所)
 明治の廃藩置県の折取り壊され、役場が建てられたが昭和初期の大火で
焼失しその後支所が建てられたそうです。

上の段の町中へ戻ります

 

「上の段」からは御嶽もまじかに見えます

上の段と晴明社
上の段区の晴明社は平安時代に活躍した陰陽師(おんみょうし)阿倍清明(あべのせいめい)(921〜1005
を祀ったもので、安永五年(1776)に同地区にある大通寺内に祀られ明治五年になって町内にある
水無神社に遷されていたものを晴明没後千年にあたる平成16年に氏子の上の段区民によって現在の地に祀られた。
(現地説明板による)

 

この井戸は、江戸時代中ごろ造られたもので、深さ二十一尺(6.5m)あり、その工法は大変珍しく
過去数度の地震にも少しも壊れることはなく、昭和中ころまで町民の飲料水として用いたものです。
この水は冷たく中山道を往来する旅人ののどをうるおし、ました。

「上の段」を抜けると西へ向かう中山道へ出ます。

西へ進むと「妻籠宿」「馬篭宿」を経て「落合宿」へ木曽路から美濃路へ入ります。