岐阜県中津川市加子母
(旧恵那郡加子母村)

天平・鎌倉にかけて高僧行基・源頼朝・文覚上人などの歴史を動かした人物がこの地をを訪れたり関与した
「かしも大杉地蔵尊」を中心に鳳慈尾山大威徳寺など千数百年の歴史と伝説を今に伝える加子母村小郷と
渓流沿いに乙女滝・ねじれ滝・和合の滝・夫婦滝など清流乙女渓谷のたどり日本二百名山の
「小秀山(こひでやま1981m)」散策記録です。

加子母(かしも)大杉と地蔵尊そして乙女渓谷と小秀(こひで)山
恵那郡加子母村の名で親しまれた「かしも大杉」も今は岐阜県中津川市加子母と呼ばれています。
交通機関は国道41号かJR高山本線の「白川」か「下呂」から25〜35分の小郷にあります。

加子母総合事務所パンフレットより

大杉を中心に民家が点在する小郷の集落
(加子母総合事務所パンフレットより)

旧加子母村小郷に近づくと大杉が目に留まります。

インシーズンになると駐車場も満車
参拝客もみやげ物店に溢れています。

大杉権現
高さ:約31m  幹周り:約12.4m  樹齢:1000年(推定)
樹齢の推定根拠
昭和のはじめ大雪のため大杉の上部が折れ落ちた枝の年輪が八百余まで数えられました。
また建久五年(西暦1194年)源の頼朝が、この地に立ち寄り朽ち果てた地蔵堂を、この大木の下に安置するよう告げた
と言われもあり樹齢は千年以上と推定されます。

現地説明版

はるか天平・鎌倉のロマンの地
大杉を中心に「源頼朝と地蔵尊」・「文覚上人の墓とナメクジ」・「鎌倉石」・「乳子の池」など伝説と歴史の跡が広がります。

源頼朝・文覚上人がこんな辺境の地の地蔵尊を縁につながり歴史を作り出していきました。

壮大な歴史の流れで、この地に
大杉地蔵由来

地蔵堂が小郷に祀られるまで
地蔵尊像は、延暦四年(785)瀬田大寺が廃寺となり、瀬田西岸の国分の地にしばらく安置され、
弘仁十一年(820)奈良時代の変動、平安時代の文化の変動、また国分尼寺の移転、
寛仁元年(1017)国分寺の焼失などがあり、石山院に安置されていた。
(以上は「滋賀県の歴史・瀬田大寺廃寺」の項による)
その後数十年
訳ありて、熱心な信者紀成恒(きのなりつね)は、幾多の困難を乗り越えられた尊像の安置に
ふさわしい地を求め、各地を巡り、安元二年(1176)当地に辿り着くと、尊体が急に重くなり、
歩行ができなくなって地蔵尊がこの地に留まりたいのを悟り、成恒は、小さなお堂を作って安置し、
堂守として一生を終えたと言う。

御本尊は行基菩薩の作
当地蔵尊は、行基の開いた瀬田大寺(滋賀県栗田郡)に安置されていた。
高僧行基が、神亀二年(725)に鑿(のみ)一刀毎に三度拝礼して彫り上げた
「一刀三礼(さんらい)」の作として伝えられている等身大の地蔵尊で
「大願王延命地蔵大菩薩」として厚い信仰を集めている。
作者の行基は百済王の子孫
行基は百済(くだら)王の子孫と言われ、布教と社会事業を展開し行基菩薩と呼ばれ、
後に聖武天皇に厚遇され、奈良東大寺の造営に尽力、
天平十七年(745)日本最初の大僧正となった。
行基大僧正は大仏が完成した年に八十二才で没した。
(加子母総合事務所パンフレットより)

文覚上人と源頼朝と地蔵尊
京都高雄の神護寺復興につとめた文覚上人は、勧進を強要したため、後白河法皇の怒りを買い伊豆へ流された。
この時源頼朝も伊豆へ流されてていて、二人の親交が始まり、
文覚は頼朝に平家討伐の義兵を挙げるよう奨めこれを助けた。
頼朝が鎌倉に幕府を開くと、諸国を巡っていた文覚は、旅の途中この地、小郷の地蔵堂に一泊した。
真夜中のこと地蔵尊の蓮台の上から声があり、目覚めると東方の池から一脈の光が出て、西方の地に跨線を描いた。
文覚は、地蔵菩薩のお告げと悟り、光の示した西の山に立派な寺を建てようと決心したと伝えられる。
そして文覚は頼朝の助け得て、日頃信仰している威徳天皇を祀るにふさわしい壮大な七堂伽藍の寺院
「鳳慈尾山大威徳寺」を地蔵堂の西へ五百mに創建することが出来た。
北条執権と小郷の地
後年北条政権となり、最明寺時頼(鎌倉第五代執権、北条時頼)が文覚の亡き後の見聞に
小口(小郷)に来たと記されている。(名古屋市女子大学所蔵の文書)
(加子母総合事務所パンフレットより)

          波乱万丈の文覚上人の終焉の地
 文覚上人は、大威徳寺を創建して後に、再び京に上り仏教の興隆に尽力したが頼朝が没すると咎により佐渡へ流され、三年後に許されて京へ帰ったとある。
 余命の少ない文覚上人は、ゆかりの大威徳寺へひそかに入らんとしたが、
ここ大威徳寺十二坊の塔頭、多聞坊で急逝され、上人の弟子や多聞坊の僧により、ねんごろに小郷の地に埋葬したという。
 時は移り享和元年(1801)地蔵尊像彩色の時、尊体の背面に文覚上人の事が刻り記してあり、書かれている通り白ツツジの下を掘ったところ、骨壷と独鈷(どっこ=密教で使う法具)が出た。
 驚いた地元の人達は、これを地蔵堂の境内に改葬し、天保四年(1833)多くの人の寄進により現在の石塔が建てられた。

    上人墓とナメクジと映画「地獄門」
      
(遠藤武者盛遠と袈裟御前の物語)

 この墓に、旧暦七月九日(九万九千日、袈裟御前の命日)の夜になると、どこからともなく、たくさんのナメクジが這い上がり、夜明けと共に、どこともなく消え去ってしまうと言う実に、不思議な現象が見られる。
 このナネクジは色が白く首の辺りに刀痕といわれる黒い斑がある。
 これは文覚上人が、遠藤武者盛遠と名乗る北面の武士であった十八歳の時、友人源渡(渡辺の渡)の妻袈裟御前に横恋慕し、恋に狂った盛遠が友の首を切ったつもりが恋慕する袈裟であった。
 七月九日の深夜であった。
 ナメクジは、あやまちを悔いて出家し難行苦行の末、高僧となった文覚上人の罪を許し、慕い寄る袈裟御前の霊と言い伝えられている。
          (加子母総合事務所パンフレットより)
(mori@silverも映画「地獄門」を思い出しました。原作・菊池寛、監督・衣笠貞之助、主演・長谷川一夫・京マチ子で総天然色、息もつかせぬ映画でした)

頼朝公と地蔵尊
源頼朝は、建久六年(1195)鎌倉への帰途、文覚の創建した鳳慈尾山大威徳寺を参拝し、
ここ地蔵尊にも立ち寄り、老朽化したお堂の修復を命じ、東方の大杉の元に祀るように指示したところから
頼朝の指杉(さしすぎ)の由来となっている。
鳳慈尾山大威徳寺の場所
頼朝の援助を受けて文覚の建立した鳳慈尾山大威徳寺は、大杉地蔵尊より西へ約五百mほど分け入った
山中にあり、当時は七堂伽藍を配し大勢の僧を擁する大寺院であった。
また寺院は、戦略上の要衝の地にあり三百人の僧兵を擁する山城でもあった。
寺院としての大威徳寺は、諸国からの参拝で賑わったが、幾度かの戦火に焼かれ
天正十三年(1585)飛騨を襲った大地震で全壊したまま再興されなかった。
(加子母総合事務所パンフレットより)

             鎌倉石のいわれ
 地蔵尊体を背負い同行して、この地に土着し一堂を建立、堂守として生涯を終えた「紀成恒(きのなりつね)の墓と云われ、あらゆる困難を乗り越え尊体をこの地へ導いた成恒の徳を称え、泥砂の汚れを防ぎ、世紀を重ねて守り継がれている。
                源頼朝はこの地へ来ていた
 源頼朝は初めて大威徳寺参詣のため小口(小郷)に来て、地蔵尊(当時の地蔵尊は現在地より西三百mの字堂垣戸)に参詣し、堂前に安置されてある三ツ石に霊験を感じ、跪座し、大威徳寺盛隆と、時の平和を祈願したと伝えられている。
 地元では、この石を鎌倉石と呼び大切に保存している。(石は後年現在の地に移転され祀られている)
                 (加子母総合事務所パンフレットより)

多宝塔(十三重の塔)
多宝塔は、釈迦如来、多宝如来の二仏を祀る塔で、
古くは木造二重の塔でした。
大杉地蔵閣境内の多宝塔は平成14年、
に世界の恒久平和を祈念して建立されました
(加子母総合事務所パンフレットより)

乳子の池伝説
文覚上人が地蔵堂で一夜を明かした真夜中、一脈の祥光を発した場所がこの地であった。
昔々近くの村人が、ヌ夜赤児の鳴き声を聞き、不思議に思って探したところ、
池の傍らに生後間もない赤児が捨てられていた。
情け深いこの女性は、赤児を育てようとしたが、乳が出ない。
困り果てて地蔵尊に祈願したところ、「池の水を与え大切に育てよ」と、お告げがあった。
女性はよろこび、毎日この池の水を与えたところ、子は立派に成人して孝養を尽くしたと言う。
この話が世に伝わり、乳の出ない女性は、地蔵尊に祈願してこの池の水を飲むと、
よく乳が出るようになったといい参詣者が絶えなかった。
いつに日かこの池を乳子の池と呼ぶようになった。
(加子母総合事務所パンフレットより)

加子母大杉は知っていましたが!
まさかこの地に鎌倉幕府の将軍源頼朝が訪れたり、北面の武士遠藤武者盛遠のちの文覚上人が壮大な七堂伽藍の
鳳慈尾山大威徳寺を創建したりした事は知りませんでした!
それが高僧行基が「一刀三礼(いっとうさんらい)」で彫り上げた瀬田大寺(滋賀県栗田郡)にあった地蔵尊をこの地に
移した縁だったとは歴史のロマンが満ち溢れた加子母でした。

地蔵堂へお参りして本日の目的乙女渓谷へ向かいます

 

小秀山登山口

加子母大杉から1.5kmほどで乙女渓谷キャンプ場管理棟へ着きます

 

駐車場・トイレなどが整備されています。

管理棟の軒下に阿寺断層地震観測点、乙女観測局がありました

                阿寺断層
 加子母村は岐阜県の東部、長野県との県境に位置し、木曽川水系白川沿いにあります。
  村の北東部に連なる標高1,500mを超える阿寺山地と、西部に広がる東美濃高原に挟まれた南北に長い間地が村の中心であり、白川(通称・加子母川)が流れている。
 加子母川の流路を規定し阿寺山地を隆起させた活断層である阿寺断層が村の中心を通っている。              (出典はフリー百科辞典ウィキメディアより)

登山口は管理棟の脇を通り橋を渡ります。

乙女渓谷に架かる木橋を渡ります

乙女渓谷を渡るとキャンプ場(バンガロー村)があります。

乙女渓谷の森から出発

乙女渓谷は、キャンプ場から乙女淵・屏風岩・ねじれ滝・シャクナゲ群生地・和合の滝・夫婦滝の展望台
避難小屋・烏帽子岩・夫婦滝などを鑑賞しながら二の谷沿いに登るルートです。

コースの特徴
夫婦滝までは木製のモールロードが整備してあり快適に登れます。
夫婦滝からは岩場コースですが「カモシカ渡り」など両手を使ってちょっとした
ロッククライミングが楽しめるコースです。

では乙女渓谷へ出発
出発は10:00

木製のルートは足に優しく快適な登山です

岩場で険しいルートをよく整備したものだと感心します

「乙女渕」まで来ました

乙女渕

木製のデッキルートは足に優しく快適です

 

足場の悪い岩場に立派なデッキルートを通すには大変だったと想像されます

屏風岩
登山口から480m  夫婦滝まで1,500m

岩までの距離が近く画像に収まりません

このデッキルートがなければ、とても登れるルートではありません。

ねじれ滝まであと400m

川風に当たって一休み

碧水湖(へきすいこ=湖とは少々オーバー) 通称めんぱ淵

ねじれ滝

ねじれ滝到着 出発から20分

落差18mねじれ滝

自然がつくりだした造形美
名前のとおり左右にねじれながら滝壺に落ちていく。

シャクナゲ群生地  登山口から650m  夫婦滝まで1,300m

和合の滝

和合の滝 出発から30分

 

 

声の泉(耳をすますと乙女のささやきが・・)
登山口から860m  夫婦滝まであと 1、095m

落石のあった橋

 
 

避難小屋

避難小屋
登山口から1,358m   夫婦滝まで600m

鍵はかかっていません(トイレはありません)

室内は簡素で備品はありません

夫婦滝まであと600m

夫婦滝展望台まで来ました。

夫婦滝までは少し遠いが二つの滝がきれいに見えるポイントはここだけ!

登山口から約55分

しばらく登ると左手に烏帽子岩が見えます

この付近はガレ場ですので足元ばかり見ていると小さな標識を見落としますから注意!

アングルが良いと烏帽子に見えます

長い年月で風化して出来た岩の造形美
だるま落としのように垂直に立った岩の上にバランスよく横長の岩が水平にのっています

ルートを外れ岩の上に登ると夫婦滝が近くに見えます

ここまで来れば夫婦滝までは130mほど

左が男滝   右が女滝
夫婦滝の元まで登ると男滝しか見えません
ここが両方見える最後のポイントです。

夫婦滝まであと少しガンバレ!

夫婦滝到着 (登山口から1時間半

ここからは男滝だけしか見えません

高さ80mから流れ落ちる男滝
滝を見ると信仰心が湧くのがわかります

滝壺は見えません

一部のガンバリ屋さんは二の谷・三の谷合流点まで上り三の谷ルートを下るコースに挑戦するため出発しました

ここから先のルートは岩場で大変なコースです
この先70分に「カモシカ渡り」と言って高さ7mの岩を越える小秀山最大の難所があります。
その先20分後に三の谷分岐へ出ます。我々の先の班はここから登山口まで戻るルートで下るはずです

我々はゆっくり下ることにしました

最近の雨で落石があり木製ルートが壊れたままとなっています

帰りはゆっくりと乙女渓谷美を堪能しながら下りました

歴史と渓谷美を堪能できるルートで満足しました。